核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

フロイト 「喪とメランコリー」(初出1917 『フロイト全集14』 岩波書店 2010)

 伊藤正博訳。
 私はフロイトを読んで納得できたことが一度もないのですが、今回もそうでした。
 だいたい、フロイトのメランコリー観は次の一節に集約されるようです。メランコリー患者の自己非難は、本来の対象から離れて患者本人へと転換されたものだと。
 
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 自分の夫はこれほどにも役立たずの妻に拘束されていると言って、これ見よがしに済まながる妻は、本当は、役に立たないということがどういう意味で考えられているにせよ、夫が役に立たないことを告訴している。(略)彼らが自分について口に出すこきおろしはすべて、根本的にはある他者について言われているのだから。
 (280ページ)
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 ・・・そういうタイプの症状があることは認めます。夏目漱石『行人』のお直とか、久米田康治『さよなら!絶望先生』の加賀愛とか。私自身、他人を正面きって批判する勇気が持てなかったばかりに、そうしたヒステリー的な精神状態に陥ったこともあります。
 ただ、その後のフロイトの論理展開は、メランコリーがなぜ躁病に急変するのかという問題に突き当たり、あからさまに停滞します。「まるで分からないという点では、わたしたちも患者と変わりがない(292ページ)」だの、「他の研究の成果がそれを助けに来ることができるまで、いずれの研究をも未完成のまま中断することをわたしたちに余儀なくさせる」(293ページ)だのと泣き言を並べたあげく、結局どうすればメランコリーを好転させられるのかは「わたしたちには窺い知れない」(292ページ)でおしまい。仮に私のメランコリーがまた悪化しても、フロイト系の精神分析だけは受けたくありません。
 原注によると、このメランコリー論は、アブラハムなる人物の1912年の論文に多くを負っているとのことです。このアブラハムという名前は、前に口唇愛についての論文(『浅草紅団』論。いまだに計画どまり)を書こうとした時にも出てきました。もし日本語で読める論文があったら、次回の調査でじっくり取り組むつもりです。