メディアも時期も私の守備範囲内であり、暴力否定がテーマといえなくもないのですが、『日本近代文学』2007(平成19)年11月号(第77集)掲載の浅野正道氏の論文「男たちの挽歌―『闇中政治家』と民権志士のホモソーシャリティ」で、私が書こうとしていた以上の論を書かれてしまい、断念したわけです。
さて、作品の舞台は開拓期の北海道。秘密の「大使命」を受け、「獲物」を求めて一人さすらう主人公(「余」)。
そんな彼の前に現れたのは、「婦人にしても見まほしき」「眉目麗はしき美少年」。「アゝ『天女(フエアリー)』男子を指して天女と称す当らさるに似たり、夫れと美の極に至ては男と女の区別なきなり」(第四回 「天女(フエアリー)」295ページ)。
「此れまて世の所謂恋愛(ラアーブ)」を経験したことのない主人公は真剣に悩みます。「男子は男子らしくあらざるは極めて醜し」「婦人の如くにナヨヤカなるは仮(たと)ひ容貌は麗はしくとも(略)厭悪の情に堪へざるものなり」
とか力説していたわけですが(誰にだ)、
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顧(おも)ふに余は彼の少年に対してハ盲となれるものならんかも知れす余は恋愛(ラアーブ)の奴(やつこ)となり了りたるならんかも知れす、(略)兎に角に余ハ一瞬間は身も魂(たま)も渠(かれ)に捧け了りたるなり、彼の少年に、彼の柔弱なる少年に、或る点に於ては余の好まさる風采ある彼の少年に、(第五回 「神唯た之れをしろしめさんのみ」296~297ページ)
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面白いことになってきました。その一方で頻発する脱獄事件、その鍵を握る盲目の男がからみ、事態はますます面白そうな展開になっていくのですが(以下ネタバレにつき文字色反転)
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読者は疾(と)くに推せるなるべし、(略)余の会せる保之介と呼べる一個の少年は即ち今ヤス女と呼ふところの少女なることを(第二十六回 「大団円」342ページ)
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・・・そこまでは想定内。で、「余」の大使命は何だったのかというと、
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父は耳新しき『話』を打聞かるゝを此上なき楽(たのしみ)となしたまふ。余が所謂『獲物』とは此の『話』なるものにてありつるなり(第二十六回 「大団円」342ページ)
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・・・で~ん。すててけてんてけってと「盆回り」が流れそうな結末です。前述した浅野論文も、この作品が性的・政治的な危うさを孕んでいることを認めつつも「しかし、問題は、その解決の仕方がとてつもなく強引だという点にある」(8ページ)と結論しています。
正直なところ、「獲物」を逃がした気分なのは私の方です。明治おもしろ小説コレクションといふ我が大使命の。