核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

木下尚江 「小説始末記」(『木下尚江全集』第一九巻 教文館 2003)

 絶対平和主義者はいかにして小説を書くに至ったか。その貴重な証言です。
 ほぼ同じ内容の書簡もあるのですが、今回は全集初収録の早稲田草稿2006バージョンで。
 
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 君よ。
 日露戦争時代の新聞社で何をして居たかと云ふ質問に対し、「始めて小説と云ふものを書ひて見た」と言ふより外に、何等返事のしやうも無い。(略)
 僕の居た「毎日新聞」と云ふは(引用者注 現在の毎日新聞とは別会社)、伝統的に非文学的な新聞で、当時六頁の紙面に、講談が二つも掲載されて居た。せめて一つを小説に換へたいと思つたが、さて書ひて貰ふ人が無い。明治二十年代の大家は、日清戦争後、何れも詩神早くも涸れて、紅葉は「金色夜叉」の始末が付かず、露伴は「天うつ波」を持て余して居た。此の落莫の天地に、徳富蘆花(引用者注 「富」の字は原文のまま)君が「不如帰」を初陣に、「思出の記」「黒潮」を続発し、独り国民新聞紙上で、清新の気分を振つて居た。―翻訳の外に道が無いと、僕は思つて居た。(「小説始末記」 『木下尚江全集』第一九巻 教文館 2003 615ページ)
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 ・・・で、「クヲ バヂス」だのトルストイの「復活」だのを人に訳させたのですが不評続きで。
 
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 さて年(引用者注 1903(明治36)年。日露戦争の前年)の十二月になると、新年の新聞のことで社内の相談会が開かれる。(略)
 会計の鈴木さんと云ふ老人は、島田社長の実兄で、此人が杉(贋阿弥。社会部主任)に稿料の事を尋ねた。(略)其頃、広津柳浪小杉天外など云ふ人達が新聞小説の大家で、特に読売新聞の「魔風恋風」と云ふ天外の作が、大評判であつた。
 (引用者注 一回あたり)小説ならば五六円、講談ならば五十銭で済む(略)
 小説問題では、僕は当の被告なので、黙つて謹聴して居たが、腹の底でムクリと虫が動ひたので、顔を上げて口を開ひた。
 『小説は必ず載せる(略)誰にも頼まない。僕が書く(略)あの人達のやうなもので可いならば、僕が片手間にいくらでも書く』
 何も書ひたことの無い僕に対しては、誰も非難のしやうが無い。一座しばらく白けて居たが、忽ち鈴木さんが賛成した。
 『可うがせう。変つて居て、きつと受けませう』
 鈴木さんの胸算用には、百か二百の金が浮ひたのだ。(略)
 僕には、あの瞬間まで、小説を書くなど云ふ念は、微塵も無かつた。然かし戦争の破裂は既に眼前に迫つて居る。戦争が始まれば、紙面は全く其れに横領されてしまふ。一つ「小説」に立て籠もつて、非戦論を書ひてやらう―かう考えた。(「小説始末記」 『木下尚江全集』第一九巻 教文館 2003 617~618ページ)
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 ・・・この年は村井弦斎が『報知新聞』で『食道楽』を大好評連載中だったのですが、彼を招こうという発想はなかったのでしょうか。当時の弦斎は戦争容認派だったから、尚江とは合わなかったでしょうけど。
 小説の発端は『不如帰』そっくりなのに、気がつけば全然違う展開になるのが尚江マジック。
 もしも尚江が『火の柱』ではなく『平和道楽』を書いていたら・・・やっぱりお登和嬢がテンピで軍人を殴り倒す展開になってたんでしょうなあ。