核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

原抱一庵 「吾の昔」

 『文藝界』1903(明治36)年7~12月。『明治文学全集26 根岸派文学集』筑摩書房 1981(昭和56)より引用。村井弦斎・遅塚麗水・村上浪六とともに報知の四天王と呼ばれた新聞小説家の回顧録です。文体は昨日紹介した麗水の「記者生活三十七年の回顧」よりさばけてます。
 
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 十二年前に吾の居つた報知社の事を書いて見たい。(略)彼処から文壇に産声を揚げた弦斎、麗水、浪六、其他二三の諸君、今は既に蔚然(うつぜん)たる大家に成つて当年の逸事奇行、或は伝へ栄もするであらう(412ページ)
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 1889(明治22)年、電報の翻訳掛りとして『郵便報知新聞』に入社したのですが、
 
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 月末の月給日となつた。状袋に入つて居るものを吾は頂戴した、中身幾許(いくら)、一圓紙幣八枚!吾は尠くも十五圓位ゐと思つて居たから失望無論である、(略)日三十銭づゝで宿(とま)つて居たのだから、八圓では宿料だけでも一圓の不足を生ずる訳だ、(略)吾は報知社にも、矢野先生にも、思軒居士にも、一言の挨拶も無く、一本の置手紙も留めず、上野の停車場(ステーション)へ走つた、兎も角も福島までの切符を買つて乗込んだ。(418ページ)
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 この後(年譜によれば翌年9月)に森田思軒に許されて再入社してますけど。明治時代とはいえ、社会人としての自覚がなさすぎます。同年(翌年説もあり)に同じ報知社にいた麗水は月給十二圓で、「母に奉じ弟を養ふに十分でありました」なんてしおらしいことを書いてるのに。その麗水と抱一庵は親しかったらしく、「報知社に入りてより最初にまた最懇に交を結んだは麗水遅塚金太郎君である」とも書いています。
 抱一庵の出世作『闇中政治家』の好評や、月給四圓の校生掛りだった村上浪六の『三日月』での衝撃的デビュー、報知社の内情なども書かれていますが、気になるのは弦斎のこと。ありました。
 矢野龍渓が抱一庵の原稿をボツにした時の言で(おそらく明治23年)、「『村井などは二三地方の新聞を受持つて書いて居るが、中々評判が好い、収入も大分あるやうだ』◎此村井と云ふを今にして思へば弦斎君のことである。」(415~416ページ 記号は正確には○の中に●)。
 弦斎が、『匿名投書』よりも前に地方紙に小説を書いていたらしいという話は、確か黒岩さんの評伝にもありました。今回の上京で、手がかりが見つかることを期待しています。
 
 2023・6・22追記 村井弦斎が地方紙に書いていた小説、10年以上の時を経て発見しました。『北海道毎日新聞』掲載の『水の月』がその一つです。「二三地方の新聞を」というからにはもう一本か二本あるはずなので、調査は続行します。