『文藝界』1903(明治36)年7~12月。『明治文学全集26 根岸派文学集』筑摩書房 1981(昭和56)より引用。村井弦斎・遅塚麗水・村上浪六とともに報知の四天王と呼ばれた新聞小説家の回顧録です。
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『報知叢話』は箇程評判であつても報知新聞は益(ますま)す売れなくなるばかりであつた。(略)
明治二十四年の秋に入りて、(略)突然来訪せられたは麗水遅塚君である、君、愈(いよい)よ没落の幕となつたよ、アノ(傍点)尾崎、犬養の政治家連ネ、彼等の今ま行つて居る朝野新聞も、彼の通り最(も)う不可(いけ)ないだらう、それだから吾々の報知に眼を付けたのだ、(略)
ソコ(傍点)で渠(かれ)等は突然思軒居士に向つて、大隈伯の命によりて今後の報知新聞は吾々が預かる事になりました、就ては従来の社員は悉く客員と云ふものになつて出社は敢て望まない寄稿は続いて願ふことに致し度いと、(421ページ)
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・・・突然の新聞乗っ取り劇。ここで森田思軒主筆の名セリフ、「文学者の新聞も売れなんだでしやうが政治家(せいぢや)さんの新聞だつて餘(あん)まり売れも致すまい」が出るわけです。
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吾は思郷病(ホームシツク)の切なる男だ、報知社革命のあつた五日目に、吾は浅草五郎兵衛町の思軒居士の蚊捷居(ぶんしやうきよ)に別を告げて、故山に走つた。
月給六圓校生掛の浪六君は間もなく東京朝日に四十圓で買はれて行つた。
麗水君はそれからも久しく尾崎君の許で、編輯を手伝つて居た。
弦斎君は依然々々小説を書き続けて今も報知社の柱石だ、君の如きは、人に対し、文に対し、事に対し、操変へざる正しき人と謂ふべきである。
思軒居士は久しき後に『国会』新聞に行かるゝまで、浪人の身で居られた。(421ページ)
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・・・さらば報知四天王。四人そろってたのは一年足らずだったわけですね。