核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『ビュルマンとの対話』 (白水社『デカルト著作集 Ⅳ』 1973)

 1648年。二十歳のオランダ人神学者ビュルマンが晩年のデカルトを訪れ、その質疑を口述筆記したものだそうです(解説 444ページより)。
 たとえば前回の、神の存在論的存在証明について。ビュルマンは『省察』の「私は二つまたはそれ以上のこの種の神々を理解することはできない」という一節について質問しています。
 
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 〔問〕―しかしなぜできないのですか。それにしても神々があることになるわけですから。 
 答―けっして神々があることにはならないでしょう。神とは、あらゆる完全性をのこらず自己のうちに含んでいるようなものを言うのですから。
 〔問〕―しかしこのことは神をいわば種的に取ったときには真ですが、逆に個別的には真ではありません。一つの神が他の神を排除することはないでしょうから。ちょうど一つの精神が精神のすべての完全性をそなえていても、他の精神を排除することがないようなものです。
 答―しかし他の理由があります。すなわち精神とは、神のように、あらゆる完全性をのこらず言うわけではないのです。ですからそれらの完全性はただ一つのもののうちだけにありうるのです。というのは、もしもっとたくさんあれば、神はないことになるでしょう。それらは最高のものではないはずで、矛盾がまた起こるからです。しかし三つのペルソナがあるということは矛盾になりません。なぜなら本質は同じであり、それら三つのペルソナは一なる神なのですから。
 (362~363ページ)
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 どうもデカルトは都合が悪くなると、「聖書のいたるところで私たちは神の像にかたどって作られたと言われているから」(354ページ)とか、「私たちはそういうことを、『聖書』にあるとおりに信じるほうがよいのです」(357ページ)といった権威による論証に走ることが多いようです。
 ビュルマンも納得できなかったらしく、こんな問いを投げています。
 
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 〔問〕―しかしそれでは神は被造物に自分を憎むように命じ、そしてこのことをそのように善と定めたなどということができたでしょうか。
 答―いまではもうできません。しかし彼が何をなしえたか、私たちは知りません。そしてなぜ被造物にこのことを命じることができなかったはずがあるでしょうか。
 (360~361ページ)
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 デカルトには真剣に答えて欲しかったものです。神はなぜ異端派や異教徒や無神論者をわざわざ創造したのかを。