二日間のごぶさたをお詫びします。
デカルトには及ばないながら、寒い国への旅から帰って参りました。で、今回も
小林秀雄とも
デカルトとも関係のない話題です。
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抽斎没後の第二十四年は明治十五年である。(引用者注 西暦1882年。以下中略)
保は京浜
毎日新聞(引用者注 当時の正式な紙名は『東京横浜
毎日新聞』)の寄書家になつた。毎日は嶋田三郎(引用者注 原文のまま。別資料では「島田」)が
主筆で、東京日々新聞の
福地桜痴と論争してゐたので、保は嶋田を助けて戦つた。主なる論題は主権論、
普通選挙論であつた。
※
晩年の『日出国新聞』時代には女性も含めての
普通選挙論に転じた桜痴ですが、1882(明治15)年の時点では
制限選挙論者であり、なおかつ
天皇主権論者でした。その桜痴と論争したということは、
渋江保はそうではなかったわけで。
その前後には、同志を何者かに暗殺されたとか、桜痴側の外山正一相手に
ベンサムの
憲法論を引用して
普通選挙論を説いた話もでてきます。
これは現物を読む価値がありそうです。『
渋江抽斎』のではなく、明治15年近辺の方を。