核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『春秋左氏伝』 その3 「兵というものをだれが罷められましょう」

 平和会議を無事になしとげた向戌(しょうじゅつ)に、子罕(しかん)という人が言いました。

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 「およそ小さい諸侯は晋・楚(引用者注 当時の二大国)から兵力で威(おど)され、そのため恐れを抱いて上と下が手を握り、それで始めて国が安らかになって大国に仕えることもできるのです。威さなければよい気になり、そこから乱が生まれ、それによって必ず亡びる。
 (略。天が生じた五材(木火土金水)がすべて人間に欠かせないように)
 兵というものをだれが罷められましょう。この世に兵が設けられてから久しいことです。これは道にはずれたものを威して文の徳を明らかにする手段であり、聖人はこれによって立ち、乱暴の人はこれによって亡び、国や人が、すたれ、興り、つづき、亡び、迷い、覚める。それはみな兵の力によることです。それだのにあなたは兵を去ろうと望まれた。何というでたらめでしょう」
竹内照夫訳『中国古典文学大系2 春秋左氏伝』平凡社 1968 296ページ)
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 向氏の一党は子罕を攻めようとしましたが、向戌本人がそれを止め、ほうびの領地を辞退して批判に応えました。平和会議がきっかけで内乱が起きたのではしゃれにならなくなるところでした。
 子罕の論について言うと、前段(小国は大国の脅威があるから安定できる)という分析は耳を傾ける価値があります。例外は多々ありますが。この春秋左氏伝でも、外に大国の脅威があるのにちっとも安定してない小国の例には事欠きません。
 後段については、次の論文で真正面から応えることにします。暴力によらずして暴力を止める。ああ、何というでたらめでしょう。できれば生涯でたらめを貫きたいものです。