核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

向坂逸郎『資本論入門』(岩波新書 1967) その2

 向坂の「小さな王国」批判はさらに続きます。

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 われわれは、『小さな王国』にかえろう。この「王国」は、突如としてある少年の不可思議な統率力によって生まれる。しかし、現実の歴史は、このようにしては生まれない。むろん、歴史の上で偉大な事業をなした「偉人」がないというのではない。しかし「偉人」をして、偉人たらしめたものは、その時代の歴史的条件である。(略)マルクスの役割が、アリストテレスの役割とちがっていたのは、当時のヨーロッパの歴史的条件の相違によるのである。『小さな王国』では、歴史と個人の役割が逆になっている。
 だから、この「王国」では、貨幣が先に出来て、商品があとから生まれる。小英雄たちが、まず貨幣をつくる。彼等は、あとから商品を持ちよってくる。その商品の種類は、まことに豊富である。(略)
 しかし、このような立派な商品は、この「王国」のどこで生産されているのであろうか。「王国」には、生産の工場はない。生産者はいない。少年たちは、これらの生産物を父母から、「王国」の外の社会で買ってもらったのである。あるいは、父母の家からそっと持ち出してきたものである。
 人間の社会は、生産なくして存続することはできない。少年たちの「王国」は、どこかで生産されたものを、父母の手を経て、持ち出すことができるだけである。およそ現実の社会の縮図ではない。
 (略)
 いま一つ。ここで少年たちが真似たのは、社会主義共産主義ではなく、むしろ父母たちのつくっている資本主義であったことを忘れてはならない。そこでは少年たちの各々はいわば小私有者であった。
 (34~37ページ。以下、ソ連社会への礼賛が続くが省略)
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 「ここで少年たちが真似たのは、社会主義共産主義ではなく、むしろ父母たちのつくっている資本主義であった」ここだけは同意します。