核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

戦争嫌いと平和主義の間

 以前に芥川龍之介の「将軍」論を書こうと決意し、先行研究は一通りそろえたのですが、どうも気が進みません。その理由をぐだぐだ書いてみます。
 芥川龍之介ないし「将軍」の思想は、情緒的な「戦争嫌い」にすぎず、倫理的な「平和主義」の域に達していないのではないのか、という疑惑がその理由です。
 「戦争嫌い」ならそれで十分ではないのか、という反論に対するために、第一次大戦期の与謝野晶子の詩を二編、部分的に紹介します。全文をお読みになりたいかたは青空文庫か近代デジタルコレクション等をどうぞ。一九一五年(第一次世界大戦下)の詩集『さくら草』より、青空文庫から引用。
 なお、「戦争」一行目の「いまは」は、デジタルコレクションでは「いでや」になっています。

   ※
  「戦争」

 いまは戦ふ時である、
 戦嫌ひのわたしさへ
 今日此頃は気が昂る。
 世界の霊と身と骨が
 一度に呻く時が来た。

  「覇王樹と戦争」

 ああ今、欧洲の戦争で、
 白人の悲壮な血から
 自由と美の新芽が
 ずつとまた伸びようとして居る。

 それから、
 ここに日本人と戦つて居る、
 日本人の生む芽は何だ。
 ここに日本人も戦つて居る。
   ※

 ……ことさらに与謝野晶子を批判するために引用したわけではありません。ただ、ムード的な「戦嫌ひ」のもろさを指摘するにとどめておきます。上の詩二編に表された思想は、少なくとも平和主義の名には値しません。
 芥川龍之介はこのような戦争賛美の言は書きませんでした。しかし、少なくとも「将軍」や随筆類に表された思想を読む限り、与謝野晶子と同様なもろさを感じるのです。
 鉄が鍛えられて鋼鉄になるように、戦争嫌いも現実との対話・葛藤を通して、戦時でもぶれることのない平和主義にならない限り、信頼に値しないと思うのです。そこへいくと、「将軍」の反軍思想は借り物の言葉でつづられているに過ぎず、芥川自身の肉声が聞こえてこない……以上が同作品で論文を書けずにいる理由です。