核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

歌うための詩と、歌わせるための詩

 作詩と作詞の区別とも言い替えられそうですが、歌詞にも自らの真情をつづった歌詞はあるし、メロディのない詩にも他者に詠わせるための詩はあるし。で今回は、「歌うための詩」と、「歌わせるための詩」という区分を設けたいと思います。

 たとえば北原白秋の、「堂々の歩武を進む 精鋭我等 我等奮へり」なんていう「大陸軍の歌」は、どう考えても白秋自身が詩人としての自らを歌った詩ではないわけです。白秋は日露戦争の時に二十歳ですが、従軍経験はありません。

 白秋晩年の大作と呼ばれる「海道東征」にも同じことがいえます。他人に歌わせるための詩であり、自ら歌うための詩ではありません。

 「歌わせる詩」すべてが悪いわけではありませんが(それは作詞という文化の否定につながりかねません)、しかし、上記二例のような戦争を題材として「歌わせる詩」は問題で、それは「戦わせる詩」になります。自らは安全な場所にいたまま、精鋭「我等」よ奮えと扇動する詩に。そういうものに、私は文学としての価値を認めません。