核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デービット・J・ルー著 長谷川進一訳『松岡洋右とその時代』(TBSブリタニカ 一九八一)

 後の外務大臣松岡洋右(まつおかようすけ)が外務省に入ったのは一九〇四(明治三七)年、つまり日露戦争開戦の年でした。上掲書はその事情について、

 

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 それから、外務省に入ると徴兵猶予の特典があった。日本がロシア帝国に宣戦を布告したのは一九〇四年二月十日であったが、松岡は徴兵検査の結果は甲種合格だったので、軍務に服する可能性が十分にあった。それが避けられるものならもちろん望ましい。そんな理由からも、洋右は外交官試験を受ける決心を固めたのである(1)。

 (四一頁)

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 上記の注(1)には、「松岡洋右夫人とのインタビューによる」とあり、信憑性は高いと思われます。実際、その後も一度も徴兵されてはいません。

 その後の松岡は国際連盟脱退、日独伊三国同盟に大活躍(?)し、昭和天皇からさえ「ヒットラーに買収されたのではないか」と呆れられます。

 三国同盟については後悔もしたようですが、太平洋戦争末期の一九四五(昭和二〇)年六月になっても「日本は勝つ、必ず勝つ」とインタビューに答え(『公論』誌)、原爆の投下を知っても、

 

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 松岡の立場からいえば、彼は原爆の投下をやや軽く受け取った。八月十一日、彼が東京駅に着くと、彼は小日山直登と阿部源基に会ったのだが、そのとき松岡は、「原爆を免れた君らを助けるために私はやってきたのだよ」と冗談を言った。松岡にとっては、原爆がこようが、こなかろうが、日本は戦争をつづけなければならないのであった(27)。

 (三七五頁)

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 注(27)はその阿部源基へのインタビューによるとのことで、これも信用できそうです。原爆二発ぐらいは冗談のネタ。まさに天才……じゃない、天災的政治家というべきでしょう。終戦後はA級戦犯として裁かれますが、判決が出る前に病死。