核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

森鴎外『灰燼』、読んでみました

 主人公の山口節蔵が回想する、書生時代。時は北清事変(一九〇〇年)頃。新聞や世間は北京の戦争の噂で持ちきりなのですが、節蔵は関心を示しません。もともと世間の人々を馬鹿にしているタイプなのです。「灰色の日」という気分に入った時にはそれがさらにひどくなります。

 世話になっている谷田家のお嬢さんが、「変生男子」(女性から男性になった人物)の相原光太郎につきまとわれていると知らされ、節蔵は正義感というよりも好奇心から、相原の説得を引き受けます。

 ここで、露伴や紅葉や柳浪も異常なことを書いている、そのうちサディズムを書く作家も出るかも知れない(お、谷崎潤一郎?)、おれは変生男子の小説でも書こうかなどと文学論が展開されます。

 節蔵が軽蔑している美学の講師から、男性や女性の美は一方に偏っている、両性具有のヘルマフロディットにこそ真の美がある、という講義を聞いて、まだ見ぬ相原への関心はいよいよ高まります。

 そして相原との対峙。相原が意外と強硬で、隠し持ったピストルに手を掛けたりしますが、節蔵の断固たる態度で、お嬢さんに今後近づかないと約束します。その武勇伝は谷田家に伝わり、節蔵の待遇は露骨に良くなります。

 そんな節蔵の前に池田という、泉鏡花に心酔している級友が現れます。鏡花論には関心を示さない節蔵ですが、思うところがあったのか、創作「新聞国」の構想が浮かびます。

 そして作中作「新聞国」。新聞以外に出版物がなく、新聞を読む人と書く人と新聞種を作る人しかいない社会です。その新聞国でクーデターが起こりかけ、面白くなりかけたところで節蔵は寝てしまい、この小説自体が打ち切られます。

 

 ・・・・・・果たして森鴎外は何を書こうとしたのでしょうか。性と政治のタブーに抵触したために断念した、というのでは、原抱一庵『闇中政治家』と同じじゃないですか。

 これも私には論文にできそうもない作品ですが、『闇中政治家』よりは興味をひかれます。特にクーデターのくだりが。