核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「ぼくはコムミュニズムを信じてゐる」と断言する福田恒存

 福田恒存(今後、地の文では「恒存」表記にします)といえば根っからの保守派言論人、ウヨクの代表であって、コムミュニズム(共産主義)やサヨクとは真逆なんじゃないの?と、戦後思想にくわしい方はふしぎがるかも知れません。

 実は、その大前提さえもウソでした。恐るべし福田恒存

 一九四八(昭和二三)年十月五日という日付があとがきにある(つまり、戦後三年目です)本の、「ぼくは神を信じない」(同年一月中旬)という小文にこうあります。

 

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 神を信ずるかどうかに答へられぬぼくも、コムミュニズムを信ずるかどうかには答へられる。ぼくはコムミュニズムを信じてゐる。いや、それは信か不信かの問題ではない。コムミュニズムの認識する現実が存在するかしないかの問題なのだ。そしてそれはまちがひなく存在する。

 福田恒存『白く塗りたる墓』(河出書房 一九四八(昭和二三)年 三九頁)

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 同書を通してお読みになればわかりますが、アイロニーやポーズではありません。この時期の福田恒存はガチで共産主義をふりかざしているのです。別の章では「鴎外の反革命的性格」だの、シェイクスピアトルストイは反動だのと、マルクス主義的文学観に基づいて断罪しています(「急進的文学論の位置づけ」)。

 戦時中に万歳していた、日本の軍国主義には、「東洋の自然に対して、より無知に、より暴力的に、そしてより傲慢無礼に、そのくさびを打ちこまうとしてゐる日本軍閥の野望のはかなさ」なんて、他人事みたいに書いてます。それと反対のものとして、「ソヴェトの夢」をほめたたえています(スターリン独裁の時代の話です)。

 戦争協力者としてのデビューに失敗した福田が、過去をなかったことにして共産主義文学者としての再デビューをはかり、それさえ失敗して保守派に逆コースしたら大ヒットしてしまった、というところでしょう。

 もはや存在そのものがウソの領域。シェイクスピアへの敬意さえウソ。