ハイエク『自由の条件』はデジタルコレクションでは読めなかったので、柄谷行人『〈戦前〉の思考』(講談社学術文庫 二〇〇一)から孫引きします。
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自由主義者のハイエクはこういっています。《われわれは自由であっても、しかし不幸であることがありうることを認めなければならない。自由とは、よいことばかりを、あるいは災いの少しもないことを意味するものではない。自由であることは、ある場合には、飢える自由、高価な過ちを犯す自由、または命がけの危険を冒す自由を確かに意味するかもしれない》(『自由の条件』)。
(五六頁)
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新自由主義、自己責任論の源流ともいうべきハイエクを今こうして引用すると、抵抗を感じる方もいるかも知れません。私は、いくつかの留保つきでハイエクのこの意見に賛同します。命がけの危険を冒す自由も、当人のみがリスクを負い、他人にリスクを負わせないのであれば、「あり」だと。
たとえば先日(2023年11月)、悪質ホストのために若い女性が900万円の借金を作らされ、その母親が涙ながらに国に訴える、という事件がありました。同情の余地はあるにせよ、しかし、その救済のために国が(つまり国民の税金で)900万円を出すというのであればそれには反対です。
その女性は自らの判断で「高価な過ちを犯す自由」を行使したのだから、次はまじめに働いて(つまり、立ちんぼや頂き女子ではなく、まともな労働で)、自力で900万円を返すべきです。
本人が不幸になるかもしれない選択をする自由、というのもあるのです。
それを認めないのはフーコーのいう生政治、伊藤計劃『ハーモニー』の前半に出てくる「生府」のような、安全ネットでがんじがらめの管理社会であって、自由な社会とはいえません。