山県有朋(やまがた ありとも)についてはこのブログは再三書いてきましたが、読んでない方も多いかも知れません。「山県有朋」って何やった人?という方のために、小林著をふまえた上で、一言でお答えします。
あやまちを繰り返した人
であると。それも戦争を重ね、日本を亡国に追いやるという形で。
小林道彦氏はもう少し、同情的な書き方をしています。山県有朋を日本軍国主義の象徴とするイメージ-それは虚像ではないと、小林著を読んで私は確信したのですが-についての反論として。
「このような政治社会体制を軍国主義と呼ぶのなら、近代国家は多かれ少なかれ軍国主義である。したがって、徴兵制度の導入や近代軍の建設をもって、山県に軍国主義のレッテルを貼っても意味はない」
(二七五~二七六頁)
これにはまったく同意できません。名誉教授たるお方のお言葉とも思えません。
「クスリ?売り?悪いことなんて誰でもやってるよ。ウチらだけじゃないし~」
などという頭の悪いギャルがきょうび実在するもんか知りませんが、小林氏の山県弁護はそれと同レベルです。「よそでもやってるから」は、悪の弁護にはなりえないのです。
明治の日本の場合、当ブログが何度も紹介してきたように、国内にさえ軍国主義に反対する知識人はいたのですから、なおさらです。
小林著からは新知識も得られましたが、「終章」の上記の結論は、その読後感を台無しにするものでした。
軍国主義者、山県有朋は、ウィーンでシュタインに吹き込まれた「利益線論」を国是としました。小林著一〇一~一〇三頁にありますように、それは日本の独立を守るために、朝鮮を「保護」下におくというものでした。日清・日露戦争はそれによって起こりました。戦争に巻き込んでおいて、何が「保護」なんだか。
自国の安全のために他国を犠牲にするという、山県有朋的な思想が残っている限り、戦争は絶えないでしょう。小林著の末尾にさえ、「「山県有朋の時代」はいま幕を開けようとしている」(二八二頁)と、危惧の言葉がありました。
社会科や日本史は、何をさておいても、山県有朋の恐ろしさ、愚かさを生徒に教えるべきです。縄文式土器と弥生式土器の区別も大事かもしれませんが、「あやまちを繰り返させない」役には立たないようです。