核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

冒険者、福地桜痴!(『懐往事談』)

 ヒロイックファンタジーの小説やゲームには、よく「冒険者」と称する、ドラゴン退治やダンジョン探索を生業とする方々がでてきます。この冒険者という言葉、夏目漱石の『門』(1910(明治43))あたりが初出かと思っていたら、福地源一郎桜痴の自伝『懐往事談』(1894(明治27)年)にその用例を見つけました。
 時は幕末。「共和政治を喜ぶの徒」と見なされ、尊王派はもちろん幕府内保守派からも危険視された桜痴。もう幕臣なんかやめてやる!とは思ったものの、「家には高齢の慈母あり妻子あり、是を棄て冒険者たらんは情理の許さざる所なれば、詮方なく」英語塾を開いてみたけど、それさえ外国奉行につぶされたそうです。ハワイ帰りのジョン万次郎に直接学んだ桜痴の英会話は当時の日本でトップクラスなのですが、教育者としての業績は福沢諭吉に遠く及びませんでした。しょせんは一万円札になれなかった男。
 
 この時期の桜痴の「冒険」を三つほど。
 (第一)文久三年(1863)十二月。赤羽根橋で武士に切り掛かられる。「もし余が身を転じて逃たらば必ず眞二ツ」のところ、逆に「ワツと云ひさまに飛掛て其曲者の右の袂の先をかすりて向ふに馳せ、一生懸命に走」ったら追ってこなかったそうです。敵もはじめての天誅で動転してたんでしょうか。
 (第二)元治元年(1864)四月下旬。「水戸藩士」の宴席に招かれて開国論を説いたら、客は天狗党(過激攘夷派)だった。議論の模様によってはこの場を立たせず殺す気だったそうです。なんか天狗党のみんなに気にいられたらしく、その後毎日のように桜痴の家に来て「先生宇内の形勢は如何」とか聞かれたとか。
(しかし元治元年旧暦四月下旬って、もう挙兵してないか・・・疑うわけじゃないけど)
 (第三)慶応三年(1867)九月中旬。友人と吉原に行ったら、待合せ場所の茶店で知人の首を見せられた。もし下手なことを言ったら、「彼は直に余を併せて一刀の下に殺すべかりしなり」。もう芸者遊びどころじゃなくなって、夜明けとともに逃げ出したそうです。
 
 引用は筑摩書房『明治文学全集11 福地桜痴集』(310~312ページ 昭和41)より。よく明治まで生き残れたもんだ。でも戦闘は一回も経験してないんですね。さすがは後の平和主義者。