核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ラッセル 「なぜ私はキリスト教徒ではないか」(1927) その1

 アリストテレスに始まり、トマス・アクィナスら中世のスコラ哲学者が丸ぱくりしてきた、「第一原因」による神の存在証明という議論があります。すべての物事には原因があり、その原因をさかのぼっていくと、すべての原因の根源にゆきつくはずだ、という説です。ラッセルはJ・S・ミル(明治の日本にも大きな影響を与えた哲学者)の自伝を引いて、この説を否定しています。

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 「わたしの父は、『ぼくをだれがつくったの?』という疑問には答えることができない、と教えてくれた。それは直ちに、『だれが神をつくったか?』という疑問をさらに提起するからだという』
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 ・・・徒然草だろそれ。別にミルや兼好でなくても気づくことなのです。どんな宗教や神話も、「だれが最初の神(あるいは仏)を生んだのか?」という問いに答えられないことは。「世界は一匹の象(アンタルがむかし見た絵では三匹でした)の上にあり、その象は一匹の亀の上にある」というインドの神話は、「じゃその亀はどうなるのか?」という問いに、「話題を変えませんか」としか答えられない。宇宙の上だか外側だかに創造者を想定する議論すべての難点です。
 ミルや兼好は、キリスト教や仏教の現状には疑問をいだきつつも、最初の神(あるいは仏)の存在を否定しきるには至りませんでした。論理ではなく倫理による神の存在証明(「この世界をもたらすためには、神の存在が必要になる」)というものも存在するからです。ラッセルの論の意義は、そうした「道徳的議論」の誤りを指摘したことにあります。長くなるのでいずれまた。