核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

バートランド・ラッセル 『社会活動の諸原理』(1916)「第三章 制度としての戦争」 その2

 最近かぜ気味で休みがちになってしまったことをお詫びします。核兵器および通常兵器の廃絶をめざすための研究活動は休まず続けているのですけど、どうも頭が働かなくて。
 ずっと前から私を悩ませてきた問題の一つに、「どこまでが通常兵器に入るのか?」という問題があります。一応、「通常兵器とは殺人傷害以外に使い道のない道具をさす」というのが私の定義で、チェーンソーやバールのようなものまで廃絶しようとは思わないのですけど、そうすると警察官のピストルも廃絶するのかという問題が発生するわけです。以前紹介したバートランド・ラッセル『社会活動の諸原理』(1916)「第三章 制度としての戦争」が、その問題を扱っていました。

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 戦争というものが、警察による強制力〔=暴力〕の使用と異なっている点は、次の事実にある。つまり、警察の諸行動は中立的な権威によって命令されるに反して、戦争においては、暴力を始動させるのが紛争の当事者自身である、という事実なのだ。(略)わたしがその相違を力説したのは、警察による強制力の行使がそっくり除去できるものとは考えず、また国際問題において類似の強制力を行使することが、恒久的平和のための最良の希望となる、とわたしは考えるからである。

 バートランド・ラッセル 『社会活動の諸原理』(1916)「第三章 制度としての戦争」 引用は『世界の大思想26 ラッセル』河出書房新社 昭和41
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 ・・・つまり中立者の暴力なら無問題と。そしてラッセルは、「戦争を恒久的に終わらせうる唯一の方法は、世界連邦結成のやり方である。(略)戦争なるものが終焉した、と考えることになんらかの根拠が生ずるためには、世界中にただ一つの陸海軍が存在する、という状態にならなければならないだろう」と結論します。
 2011年の人間ならすぐに思いあたることですが、「世界の警察」を自認する超大国が好き勝手をはじめたらどうするのか、という反論がすぐに出てきます。ラッセルより昔の人でも、明治の平和主義小説家矢野龍渓は、『経国美談』後篇で国際連合らしき組織の設立と、それが二大国のエゴによって崩壊する様を描いています。もちろん、私も唯一絶対の軍事力による平和には賛成できません。
 むしろ問われるべきは、「警察」という、暴力を暴力で抑圧するシステムそのものなのかも知れません。現にガンジーは国家警察を廃止し、村ごとの自警団に治安をゆだねる憲法案を提示していました。
 私はそこまで徹底していないのですが、とりあえず警察官の武装を銃ではなく、殺傷力のない捕縛手段に置き換えるぐらいは検討したいと思っています(銭型警部の投げ手錠とか・・・)。