核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

自我の共存をめざす文学

 夢の中で論文の続きを書いていたら、「自我の主張ではなく、自我たちの共存をめざす文学」という一節を思いつき、はっと目が覚めました。
 夢での思いつきが実際に役に立った例はほとんどないのですが、これは例外かと。「平和主義小説」の最も簡潔な定義といえそうです。
 明治20年代の二葉亭四迷の『浮雲』、森鷗外の『舞姫』あたりを先駆とし、40年代の夏目漱石自然主義によって完成されたという近代日本文学(呼びたければ「近代小説」でも「純文学」でも「正典」でもけっこうです)には、「他者たちと己をいかにして共存させるか(迎合でも屈服でもなく共存です。志賀直哉の『和解』は、むしろ「無条件降伏」と呼ぶべきではないでしょうか)」という問いも、まして「争いあう他者たちをいかにして共存させていくか」という問題も欠けていました。
 そうした問題を扱ったのが、明治23(1890)年から明治38(1905)年あたりまでに書かれた、私が平和主義小説と名付けた一連の作品群です。平和主義とは国家間の戦争の絶滅をめざすだけではなく、諸個人間のいじましくみみっちい争いに対しても、力による抑圧ではない、すぐにでも実現可能な解決案を提示していくことです。現に村井弦斎の『酒道楽』が、「これを読んで禁酒に成功しました」という読者の声が殺到したという例もあります(私の場合は別のきっかけが必要でした)。
 それでも、「平和のための小説」なんてのは不純だ、という芸術至上主義者もいらっしゃるかもしれません(現にいたのですよ。少なくとも2009年の時点では)。呼びたければ「不純文学」と呼んで下さってもかまいません。ただ、文学が人間性を探究する営みであり、文学研究がその探究を分析する学であるとすれば、その成果を平和のために使わないのは、怠慢であると私は思っております。