ちくま文庫『プルタルコス英雄伝(上)』(1987)の「テセウス伝」31ページより。
三浦俊彦『論理パラドクス』(二見書房 2002)にもとりあげられていた問題です。
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テセウスが若者たちと一緒に乗って出帆し、無事にもどって来たその三十(木偏に堯)船は、ファレロンのデメトリオスの時代(引用者注 訳注によると前317~307年)に至るまでアテネ人が保存していた。彼らは古い木材を取り去り、その代りに別の丈夫なのをあてがってもとどおりに組み立てたので、この船は哲学者たちの間で、成長をめぐる未解決の論議の一例となった。すなわち、ある者は船は同じままであるといい、ある者は同じままではないというのである。
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金閣寺みたいに、全部焼けて一から建て直したのなら「別物」なんでしょうけど。腐った部分を少しずつとりかえているうちに、気がついたらオリジナルの部品が一つもなくなってた、という場合は問題です。人間の体だって、生まれた当時の細胞は残ってないでしょうし。
おおまかな同一性を保った上での改造なら、たとえ最初の構成要素が全部なくなっても、「同じ」でいいのではないでしょうか。当ブログも最近方向性を見失ってる感はありますが、「核兵器および通常兵器の廃絶」という初心は見失っていないつもりです。