核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『河上徹太郎著作集 第二巻』新潮社 1981(昭和56)年

 気になった箇所のみ、ダイジェストでお送りします。「」内は引用。()内は注釈と私の感想です。初出は著作集に注記されたままであり、今回は実際に初出を読んだわけではありません。
 
   ※
 「私は率直にいはう。明治文学史を通じて偉大な小説は沢山あつた。然し偉大な小説家は岩野泡鳴ただ一人である(略)彼は日本文学で唯一の宇宙的な作家になることができた。」
 (13~14ページ。「岩野泡鳴」『文藝』昭和9年5月。・・・あの放蕩無頼作家のどこが宇宙的ですか。確かに中学生相手に「俺は宇宙の帝王だ!」なんて演説はしてるけど。同じ自称宇宙の帝王でも、植木枝盛の思想の普遍性にはとうてい及びません)
 
 「ここに於て私は私小説の定義が下せる。即ち、作者が自分自身の不幸を救ふ小説が私小説である。」
 (102~103ページ。「花花」『文藝』昭和8年12月。・・・小林秀雄の「私小説論」も同じく横光利一の「花花」を扱っていますけど、明快さは河上のこの論の方がはるかに上です。「作者が自分自身の不幸を救ふ」ための小説というのも、あっていいと私は思います。そればっかりだと困るけど。なお私は「他人の不幸を救うことができる、私小説でない小説」が好きな派です。対偶にもなってないな)
 
 「或る日君(引用者注 小林秀雄)は人でも殺して来たやうに真剣な顔をしてやつて来て、いきなりいふのだ。「君、ペリクレス時代にペストが流行つた時にはアテネの人口が半分に減つちやつたんだつてね。」この死の恐怖は明らかに肉体的本能を超越したものであり」
 (114ページ。「小林秀雄「オフエリヤ遺文」『作品』昭和7年1月。・・・コメントは後述)
 
 「やがて時代は、事変から、開戦、降伏といふことになる。その内小林は、開戦前の一年は比較的よく書いてゐるが、開戦と共にまるで寡作になり、それもわが古典か或は新刊書などにテーマを託した独自な内密なエッセイに限られてしまった。(略)この発言(引用者注 大東亜文学者会での発言「文学者の提携について」)にまつはつて私は思ひ出がある。「君つていふ友達が勧めるから俺はしやべつたのだ。でなけれや、あんな所でしやべるものか、」と彼(引用者注 小林秀雄)は後でゐつていた。」
 (157~158ページ。『小林秀雄全集』昭和30年9月~32年5月。・・・真偽は当ブログが提示した資料とあわせてご判断ください。「書けますですね」も河上に勧められてしゃべったんでしょうか)
 
 小林秀雄は戦後の『考えるヒント』でもペリクレス論を書いてましたけど、昭和7年の段階で関心を持っていたとは。なお、ペリクレス時代の疫病が「ペスト」であったかは異説がありますし、「人口が半分」というのも典拠を調べないと疑問ですが、些細なことです。
 パルテノン神殿の建設者であり(建てたのは大工さん?フェイディアスをはじめとする大工さんを手足のごとく指揮したのがペリクレスなのです)、古代アテナイの全盛期を築いたペリクレスについては、いずれは語らねばと思っていました。プルタルコスペリクレス伝は手元にありますが、できたらトゥキュディデスあたりを明日にでも読んでみたいと思います。
 もはや小林や河上とは無関係に。民主と平和の困難を知るために。