核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

小林秀雄 「私小説論」(1935(昭和10)年) 初出との異同

 すでに誰かが指摘していそうでもあり、細かい上に非生産的な話なので、手短にまとめます。
 新潮社第五次全集(平成13年)の「私小説論」末尾には(「経済往来」、昭和十年五月)とありますが、正確には、
 
 「私小説論」 『経済往来』誌 1935(昭和10)年5月 351~355ページ
 「続私小説論」 同6月 320~325ページ
 「続々私小説論」 同7月 467~471ページ
 「私小説論(結論)」 同8月 364~369ページ
 
 の4回に渡って連載されています。(しかしなぜ経済誌に)。
 異同は多々ありますが(例によって全集補巻では無視されています)、一番長いやつを。
 8月号(結論)の364~365ページ、「これは難しい問題である。」と「作家の秘密とは何か」の間の部分で、横光利一について「氏の思索力の曖昧さ」に始まり、「批評の衰退を気にした方がよささうである」で終わる批判めいた一段落が、全集では削除されています。
 
 (なお、国会図書館所蔵のマイクロフィッシュ版『経済往来』8月号には、この異同の部分に小さくカッコがついていますが、やったのは断じて私ではありません。冒頭に「すでに誰かが指摘していそう」と書いたのは、すでに異同を確認した人がいるという意味でです)
 
 「純粋小説論」など横光利一の文学論が独断的なのはその通りですが、「曖昧な言葉が、曖昧のまゝに意味しているところを直覚せずに寄つてたかつて勝手な解釈を與へる」という批判は、そのまま小林のこの論にもあてはまります。彼は「純文学」や「私小説」という言葉をきちんと定義した上で使っているでしょうか?
 だいたい、「純粋小説論」を「純粋文学論」と間違えて書くようでは、横光の目指したところをつかめているかすら怪しいというものです。私は横光の「純粋小説論」の方が、この何も語っていない「私小説論」よりも生産的だと思っています。
 横光利一の「純粋小説論」は、一言でいうと「純文学にして通俗小説」な小説の提唱です。同論についてはまたいずれ。これでも私は工員時代、なけなしの月給をはたいて同志社大横光利一研究会に出かけたこともあるのです。