核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

カール・シュミット『政治的なものの概念』(一九三二) その1

 引用は『カール・シュミット著作集1』(慈学社出版 二〇〇七)より。

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 敵はhostis πολεμιος(ポレエミオス)であって、広義のinimicus εχθρος(エクトロス)ではない。ドイツ語は他国語と同様「私敵」と政治上の「敵」を区別しない。そこから多くの誤解や変造が可能となる。しばしば引用される「汝らの敵を愛せよ」という聖句(マタイ伝五章四四節、ルカ伝六章二七節)は、「汝の私敵を愛せ」(diligite inimicos vestros αγαπατε τους εχθρους υμων)であって、「汝らの公敵を愛せ」(diligite hostes vestros)ではない、すなわち政治的な敵を問題としているのではない。キリスト教国とイスラムとの千年にもわたる戦いにあっても、サラセン人もしくはトルコ人に対する愛のゆえにヨーロッパを守るかわりにこれをイスラムの手に委ねるべきだなどと考えたキリスト教徒は一人もいなかった。政治的意味における敵を個人的に憎悪する必要はないし、私的領域においてはじめて彼の「敵」、すなわち彼の敵対者を愛するということが意味を持つのである。上掲の聖句は善悪の対立とか美醜の対立といったものの廃棄を目指すものではないが、それにも増して政治的対立にふれるものではない。聖書は、とりわけ、人は国民の敵を愛し、かつ自国民と対立して敵を支持せよとはいっていない。
 (二五七ページ)
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 ……聖書の文献的解釈としてはその通りなのかも知れませんが(その通りじゃないかも知れません。後日ギリシア語箇所を打ち込んだ上で調べてみます)、なんでしょうかこの違和感は。
 (追記 一応ギリシア語を打ち込んでみました。綴り間違いがあったらただちに訂正します)
 シュミットのいう通りだとすると、「汝らの敵を愛せよ」は、「個人的な敵とは仲良くしましょう」という、実に世俗的・常識的な処世術に過ぎなかったことになります。
 それでいいんでしょうか。文献学と平和学、両方の側面から疑いをかけていきたいと思います。