副題通り、瀬戸内寂聴「風景」が中心なのですが、中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』(への批判)にもかなりの紙幅が割かれており、今回はそちらを中心に読むことにしました。寂聴さんは、いずれ『美は乱調にあり』を読んだ時に論じようと思うので。中森著もまだ読んでいないのですが、実は内藤論のもとになった学会発表に私は出席していまして、あらすじは把握しているつもりです。
十七歳の男子高校生に大杉栄の精神が宿り、その憧れのアイドル「りんこりん」に伊藤野枝の精神が宿って、百年近い時を経て再会するという作品。作中でも
と主人公の兄が発言しているそうですが、確かに男子高校生の願望そのままのような設定ではあります。アナーキズム(無政府主義)の思想家であった伊藤野枝を、アイドルや芸能人になぞらえ、恋愛あるいは性的な妄想の対象としてしか見ないのは、一種の差別ではないのか。内藤論は中森著を、「アナーキズムを脱色」、天皇制への叛逆の意志がすっかり影を潜めていると厳しく批判しています。
中年男性研究者の私にとっても、いま伊藤野枝はアイドル以上に貴い存在なのですが、自分に都合のいいアイドル(偶像)には仕立て上げないよう、留意しようとは思います。自戒します。
とはいえ、こっぴどく批判されている中森著にも救いはありそうな気はします。大杉栄の声を借りて、赤木智弘(前述の、主人公の兄のモデル)や柄谷行人や東浩紀が論じられているとか。そこに批評性はないのか。近場の図書館には置いてなかったのですが、もしかしたら読むかも知れないリストには入れておきます。