核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大杉栄「新秩序の創造―評論の評論」(「労働運動(一次) 六号」勞働運動社    1920(大正9)年6月1日納本発行)

 伊藤野枝、神近市子とくれば、大杉栄とその思想にもふれないわけにはいきません。

 大杉晩年の、その無政府主義思想を表明した文章を青空文庫で見つけましたので、コピペします。

 

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 何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片きれでも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。
 奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。
 僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

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 「音頭取り」とは演説する指導者を、「犬」とはその指導者を警備する警察官や支持者を指しています。大杉の主張からすれば、日本国憲法の枠内での政権交代と平和主義をめざす私も、「音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ」ということになるかも知れません。

 しかし、「みんなが勝手に踊って行きたい」という大杉の主張は、実現可能なものでしょうか。どうも西川長夫らの国民国家批判にも似て、空虚な論に思えます。