核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

報復でも無抵抗でもない、まったく新しい倫理へ

 紀元前のハンムラビ法典旧約聖書には、「目には目を、歯には歯を」という思想が出て来ます。「人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」いう同害報復の論理です。

 紀元前ならそれでよかったかもしれません(よくなかったかもしれません)が、核ミサイルの時代には通用させがたい論理です。隣国の独裁者がばかすかミサイルを撃ってくるから、こっちもミサイルを撃とう、反撃能力や先制攻撃能力を充実させようなんて考えていたら、地球がいくつあっても足りません。ダメです。

 で、イエスはこう言いました。「あなたの敵を愛しなさい。(略)上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」。画期的なアイディアにも見えますが、これもダメです。パンツ脱いで強盗に差し出すぐらいなら実害はありませんが(ないか?)、「領海にミサイルを撃つ国には、無抵抗で領土も差し出しましょう」なんてことを岸田首相が言い出したら、日本どころか世界秩序の終わりです。イエス的な無抵抗の思想は、悪をはびこらせるだけです。

 報復もダメ、無抵抗もダメというのが、核ミサイル時代における日本の、そして人類のおかれた現状です。モーセやイエスを超える、まったく新しい倫理が必要です。

 で、伊藤野枝の小説「火つけ彦七」ですが(いきなりスケールが小さくなった?そんなことはありません)、「差別には差別を、放火には放火を」の論理で生きた結果、自他に破滅をもたらすことしかできなくなった悲劇を描いています。といって、クリスチャンであった形跡のない伊藤野枝が、彦七は無抵抗で差別され、放火されるべきだった、と考えていたとはとうてい思えませんし、作中からもそんな思想はうかがえません。

 もしかしたらですが、伊藤野枝ダメじゃないかも知れません。彼女が明確に報復や無抵抗を超える論理を持っていた形跡は、岩波文庫伊藤野枝集』を読んだ限りでは、ストレートには見当たらないのですが、調査してみる価値はありそうです。そしてそれ以上に、報復や無抵抗ではない方法を、「火つけ彦七」を通して私自身が考える必要も。報復をちらつかせるのではないタイプの抑止。