遅塚麗水の紀行文集「旅かゞみ」より。大正三年六月との日付あり。
国府津の小栗貞雄(政治家。矢野龍渓の弟)邸を訪れた時のこと。
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楼に上れば温顔の主人と相対して村井弦斎氏及び夫人ありき、氏と相見ざること数年、今端りなくもこの荘に邂逅す、正に奇縁なり、
(略)
主客六人、弦斎氏は素より杯中の趣を解せず、(略)弦斎氏夫人皆な曹達(さうだ)水を摂る、弦斎氏、近ごろ書痙(しよけい)を患ひ、針治して稍や瘥(い)ゆ、曰(い)ふ万年筆を用ゆるが為めなり、毛筆を用ゐなば、柔軟にして此病あらざるべしと、
遅塚麗水『旅かゞみ』(大正四年 七~八頁)
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酒道楽じゃなくソーダ水ですか。星新一も悩まされた書痙、多作な弦斎も苦しんでいたようです。
なお、「主客六人」とは小栗夫妻、遅塚麗水、その連れの石塚医師、村井弦斎夫妻で六人。
石塚医師とは、弦斎より早く「食育」を提唱した石塚左玄かと思ったのですが、明治四二年に亡くなっていました。長男の石塚右玄かも知れません。