2023・7・3追記 「平和主義」という語を日本で最初に用いた例は、
矢野龍渓以前にありました。まだ未確定ですが、それも
植木枝盛である可能性があります。
接点があって当然と思ったのですが・・・膨大な植木の日記で、矢野に触れたのは次の二箇所だけでした。
※
(『
植木枝盛集』 第七巻(1990) 112ページより 日記 明治10(1877)年 第一月)
廿四日(にじゅうよにち) 夜槍屋町医学会社、福沢、小幡、江木、井上、矢野等の演説会に過る。此日皇帝
大和国並西京に
行幸。朝日陰町に行く。
(『
植木枝盛集』 第一一巻(1990) 278ページより 閲読書目記)
※
・・・なお、
経国美談前編を読んだという記録はありませんでした。
福沢諭吉の分権論なんかは筆写していたようですが(上記日記の四日後の記述より)、
矢野龍渓にはそこまでの思い入れはなかったようです。残念。
それより「皇帝」って誰なんだ。
西南戦争直前のこの時期に「
行幸」したなんて記録
はないし(追記 あったみたいです)、ハワイのカラカウア国王はまだ来日してないし・・・またいずれ。
追記 明治天皇睦仁は1877(明治10)年1月に京阪方面にいたことが、D・キーン『明治天皇』(上)その他の文献から確認されました。
植木枝盛の文章で「皇帝」と呼ばれる人物は一人しかいない。そう勝手に思い込んだためのミスでした。慎んでお詫びいたします。(2011・11・23)