核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

木下尚江 「幸徳秋水と僕―反逆児の悩みを語る」

 大逆事件100年、幸徳秋水生誕140年を勝手に記念する特別企画第三弾。1934(昭和9)年刊行の『神 人間 自由』に収録された木下尚江の回想「幸徳秋水と僕」を紹介します。初出は前年4月の東京朝日新聞なのですが、コピーが手元にないもので、筑摩書房『近代日本思想大系 10 木下尚江集』から引用します。
 
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 僕が今幸徳を語るを見て、「逆徒」の名を語るを見て、必ず恐怖する人があらう。戦慄する人があらう。憤怒する人があらう。君よ。僕は逆徒を語るのではない。逆徒を擁護するのではない。「逆徒の悩み」を少しく聞いて欲しいのだ。
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 ・・・なんか福本キャラみたいですけど、似たようなことを三回繰り返すのが尚江の文体なのです。
 
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 明治三十四年、僕が始めて社会党(引用者注 正確には「社会民主党」。もちろん現在の同名政党とは別物です)の創立に関係した時、安部磯雄片山潜の二君は、年齢においても学識においても、長者として尊敬して居たが、親密な友情を有つて居たのは、幸徳秋水であつた。
 (略。1903(明治36)年、日露戦争の前年)幸徳が「非戦論」で「万朝報」を退社したといふことは、当時の青年への一大衝動であつた。彼は同問題で一緒に進退を決した堺利彦君と二人で、数寄屋橋角の古長屋に「平民社」を新設し、「平民新聞」といふ週刊新聞を発行した。堺君といふ人と提携したことが、実に幸徳の幸福であつた。
 幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐に肝胆を吐く時、一種の精気―鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ。彼は虚弱でよく病んだ。
 堺君は常識の人、事務の人、強健で快濶、一切万事一人で忙しく切つて廻すところに、堺君の興味があつた。堺君のゐるところには、初夏のやうな晴れやかさがあつた。
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 ・・・日露戦争下での反戦活動が安易であるはずもなく、発売禁止・投獄・家宅捜索といろいろあったわけですけど、尚江にとってはこの時期が最も幸福な時代であったように思います。少なくとも、「なぜ予は彼と共に死ねなかったか?」と、自問自答しつづけたその後の二十数年間に比べれば。