今回取り上げるのは、原敬が最初に内務大臣になった時期(1906(明治39)年)の、「社会主義者中重立つ者の生計の模様」(カタカナはひらがなに。以下同様)。片山潜、西川光次郎(光二郎説もありますがこの表記)、木下尚江、岡千代彦、堺利彦、幸徳伝次郎(秋水)の6人。まず木下尚江。
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本人は別に固定資産を有せさるも従来毎日新聞社の記者として毎月金六十円を受け且つ著述等にて他にも多少の収入ありて之れに依り生計を営み居れり(315ページ)
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その他の人物については、
西川光次郎は『光』誌で月々25円以上の収益、
岡千代彦は都新聞で月俸20円(現在解雇、再就職活動中)、
堺利彦は『萬朝報』で月給40円・・・を辞職して(非戦論ですね)各種雑誌発行で月々60~70円の収益、
それぞれ理解のある資産家から援助してもらったり、苦労してます。定職がある上に、『火の柱』『良人の自白』をヒットさせた尚江は、少なくとも経済的には一番恵まれてたんじゃないでしょうか。母の死や革命路線への疑問で、内面的には悩みまくってましたけど、内務省はそんなことまで配慮してくれたりはしないのです。