核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『原敬関係文書 第八巻』による木下尚江の生計

 1907(明治40)年前後の社会情勢を知りたい方は必見の、『原敬関係文書 第八巻』(原敬文書研究会編 日本放送出版会 1987)。当時の新聞や雑誌の発行部数や関係者一覧も載ってます。
 今回取り上げるのは、原敬が最初に内務大臣になった時期(1906(明治39)年)の、「社会主義者中重立つ者の生計の模様」(カタカナはひらがなに。以下同様)。片山潜、西川光次郎(光二郎説もありますがこの表記)、木下尚江、岡千代彦、堺利彦、幸徳伝次郎(秋水)の6人。まず木下尚江。
 
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 本人は別に固定資産を有せさるも従来毎日新聞社の記者として毎月金六十円を受け且つ著述等にて他にも多少の収入ありて之れに依り生計を営み居れり(315ページ)
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 その他の人物については、
  片山潜は私立幼稚園と日本興農株式会社からの手当金(金額不明)
  西川光次郎は『光』誌で月々25円以上の収益、
  岡千代彦は都新聞で月俸20円(現在解雇、再就職活動中)、
  堺利彦は『萬朝報』で月給40円・・・を辞職して(非戦論ですね)各種雑誌発行で月々60~70円の収益、
  幸徳秋水は同じく『萬朝報』を辞職した『平民新聞』時代は月収50円、寄付金で米国に渡航し、現在帰朝。  近々郷里に向け出発。
 
 ・・・幸徳秋水の帰国は1906(明治39)年6月23日、帰省は7月4日ですので(筑摩書房幸徳秋水集』年譜より)、この調査はその間に行われたと推測できます。 
 それぞれ理解のある資産家から援助してもらったり、苦労してます。定職がある上に、『火の柱』『良人の自白』をヒットさせた尚江は、少なくとも経済的には一番恵まれてたんじゃないでしょうか。母の死や革命路線への疑問で、内面的には悩みまくってましたけど、内務省はそんなことまで配慮してくれたりはしないのです。