手放しで礼賛できる人ではない。それはわかっています。ただ、欠点(第二次世界大戦時にはドイツへの戦争に賛成してたとか)は認めつつも、20世紀の哲学者の中では、私がポパーの次に尊敬する人物であり、その平和論には聞くべきものがあると思っています。
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これまで構想されてきたユートピアのすべては、耐え難いまでに退屈なものだ。自分の内に誰もが、スィフトの理性の馬たち(引用者注 ガリバー旅行記の最終章に出てくる、高貴で平和主義な馬の一族。訳注には「人間と同じ理性をもっている」とか書かれてるけど、Yahooと一緒にしちゃ失礼でしょ)の国に、あるいはプラトンの理想国などに住むよりは、ありとあらゆる青白い恐怖に満ちたこの世界に住むことの方を好むだろう。ユートピアを構想する人々は、何が良き生活であるか、ということに関する根本的に誤った仮定から発してゆく。(略)
人間の幸福なるものの大部分が、能動的な活動に依存しており、残りのごくわずかのみが、受動的な享受に派生することを彼らは悟っていない。
バートランド・ラッセル 『社会活動の諸原理』(1916)「第三章 制度としての戦争」 引用は『世界の大思想26 ラッセル』河出書房新社 昭和41 による
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・・・平和は退屈である、というありがちな平和主義批判にも、一面の真理はあるのです。ただ単に安全で快適なだけの生活では、たいていの人間は満足できません。ラッセルの言葉で言うなら「創造欲だとか、自分の能力を行使する願望」、当ブログが使ってきた用語なら「気概」を満足させられない生活は、たとえ平和であっても幸福ではありません。だからこそ、平和と豊かさにあきたりない人々が存在するのです。
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最良のものすべてを産み出すのとまさに同じ生命力が、他方では戦争そのものや、戦争への愛好心をも産み出すことは明白なのだ。このことが、平和主義に対する反論の根拠であり、その反対論に共感する多くの人々には、その意図や活動が決して残忍でない人々がいるのである。(略)
平和主義が勝利を収めるとともに、人々に恩恵を与えるものになるべきだとすれば、現在は諸国民を戦争と破壊へ導びいている活力に、人道的感情を両立しうる吐け口を見出さねばならない。
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・・・「平和とは戦争がない状態にすぎない」なんて言って、うまいこと言ったつもりでいるエクスコミュニストもいますけど、絶対平和主義とはそんななまやさしいものではありません。人類の生命力に、戦争を含む暴力や差別とは違った形の進むべき道を示すこと。私にとってはそれ自体が、「気概」を満足させるには充分すぎる挑戦です。