核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大江健三郎「抵抗の意思を示す時」

 『世界』2011年11月号62ページ。9月19日の、東京明治公園「さようなら原発 5万人集会」にての発言だそうです。なおこの記事自体の題名は、「『さようなら原発』 6万人集会の記録」、となっております。
 
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 二つの文章を引いてお話します。第一は、私の師匠渡辺一夫(仏文学者)の文書です。
 《「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られます。それはうそであります。「狂気」によってなしとげられた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。真に偉大な事業は「狂気」に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に地道になされるものです。》
 この文書はいま、次のように読み直されうるでしょう。
 《「原発」の電気エネルギーなしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られます。それはうそであります。原子力によるエネルギーは、必ず荒廃と犠牲を伴います。》
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 以下、「想像力も知識もない政治家たち」や「経団連の実力者たち」への攻撃が続きますが省略。
 引用された渡辺一夫の文については、一応は同意できます(「真に偉大な事業は……誠実に地道になされるものです」のくだりは特に)。しかし、そのどこを「読み直」せば、反原発の論拠が出てくるというのか。こじつけとしか思えません。
 念のために筑摩書房の『渡辺一夫著作集』収録の偶感集を一通り読んでみましたが、核兵器への批判はあっても、原子力発電への批判は発見できませんでした。代わりに見つかったのは以下の一節です。
 「もし若者が行えたら、もし老人が知っていたら……」(dec.1959) 『渡辺一夫著作集12』 筑摩書房 1970 283~284ページ。
 
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 私は、つい最近のこと、日本の有数な原子物理学者と天文学者(お二人とも、私よりずっと若い方々)とお話をする機会に恵まれましたが、これらの方々から、原子力の進展は、我々が困っている問題、例えば社会問題思想問題などをも、解決する可能性を持っているかもしれないという暗示を与えられまして、びっくりもし、安心もいたしました。それと同時に、これらの有能な方々の研究の成果なり発言なりを、我々が選んだ政治家たちはもっともっと参考にしなければならないし、これらの方々を、正に「士として遇さねばならない」と、染々思いました。
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 大江発言とは逆に、渡辺一夫は「原子力の進展」を、1959年当時の政治家に訴えているのです。
 渡辺一夫については、私は批判するつもりはありません。「もし2012年を知っていたら」と思うばかりです。
 私が批判したいのは大江健三郎です。彼が本当に渡辺一夫を尊敬しているのであれば、こんな不正な引用はしないはずです。そして彼がかつての原発礼賛を悔いているのであれば、政治家よりもまず己を責めるべきです。こういう誠実でも地道でもないやり方で、脱原発という難事業が成し遂げられるとは思いません。