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近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

土田杏村「河上肇論」(『中央公論』1929(昭和4)年7月号) 雑感

 オタどんさまも関心を持たれたようなので、もう一本だけ土田杏村を読んでみることにします。言及されている河上肇その他と読み比べたわけではないので、ひとまず雑感とさせていただきます。引用は例によって、『近代日本思想大系 35 昭和思想集Ⅰ』(筑摩書房 1974)より。
 一言で言うと、「河上氏はマルクス・レーニン主義を理解していない」という方向の批判です。
 
   ※
 これ(引用者注 河上肇の哲学的立場)はマルクス、レニンが主張した唯物論的認識論であるか。河上氏の出発点は現象そのものではなくて、現象の表象だ。「直接に生ずる表象そのもの」といふと、マッハ主義の「直接経験」「経験の直接与件」といふと、其間に何の相違があるか。河上氏は依然として、レニンの排撃した経験批判論の立場より離れていない。
 (283ページ)
 
 要するに我々は河上氏の取るマルクスを越えてマルキシズムをより(原文「より」に傍点)現実的に進めなければならない。
 (285ページ)
    ※
 
 マッハはだいぶ前に読みましたけど(小林秀雄の「マルクスの悟達」を読んだ時でした)結局理解できませんでした。なので、河上肇の哲学がマッハ主義であるかの是非はここでは問いません。
 ただ、この文章から確実に言えることは、土田杏村が「私はマルクスを自らの思想の偉大なる先覚と考へてゐる」(282ページ)こと、彼の河上批判はマルクス・レーニン主義を真理とした上で、河上がそれを理解していないとする方向での批判だということです。
 別に珍しいわけではなく、この『昭和思想集Ⅰ』に収められた文章のほとんどは、「○○はマルクスの唯物弁証法を理解していない。本当のマルキシズムは△△だ」という類ばかりです。
 だからこそ、同じ『中央公論』の同じ年の一月号で、「筆者はマルクス主義者ではない」と公言し、にもかかわらず忠君愛国主義国家主義にもくみさなかった、河合栄治郎はつくづく特異な存在だと思うのです。