核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

星一『三十年後』 その7 念写文学

 御船千鶴子千里眼に続き、長尾郁子の念写が話題になったのは1910年(明治43)年。
 ああいうのが商業的に実用化されたら、文筆家はさぞ楽になるのでは。『三十年後』の未来世界ではそうなってまして、時代に取り残された嶋浦翁を驚かせます。

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 (三万人からの案内状を手で書いていては大変じゃないかという嶋浦翁に)
 『いヽえ、念写版といふ専売特許品です。一時疑問とされた念写とは全く別な発見で、三万枚が五万枚でも、立地(たちどころ)に念写の出来る機械が出来ましたので、訳は有りません』
 『すると手で字を書く時代は過去になつて、頭脳(あたま)で字を書くのが此頃なんだね』
 『まア然うで御座ます。ですから文士なんかも大変楽に成りまして、原稿を一々書いて清書をして、それに一々ルビを振つて、それを活版へ廻して、校正を再校三校位まで取つて、 初めて手の離れた時代とは大違ひです』
 (近代デジタルライブラリー 星一『三十年後』 50/138)
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 私は卒論を鉛筆とボールペンで書き、修論ワープロ専用機で、博論をパソコンでと、進歩の恩恵をじかに受けてきた世代ですので、「手で字を書く時代は過去になった」という言葉は実感できます。ボールペンに修正液だと、どうしても直した痕跡が残ってしまいますので。
 (以下一節削除。痕跡は残しません)
 誤字脱字をあとかたもなく修正できるようになったのはいいことです。ベンヤミンなら、それが質の低下をもたらしたとか言うかもしれませんが、私はそんな説は信じていません。