開戦直前に敵を殺すのが嫌になったアルジュナへの、クリシュナの答え編。
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汝は嘆く要のない者について嘆いた。 しかも思慮あるような言葉を語る。
死者のことをも生者のことをも、 識見ある人は嘆きはしない。
「バガヴァッド・ギーター」『ヴェーダ アヴェスター』(筑摩書房 1967)
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…なんで戦争を嘆く必要がないかというと、個我は肉体を失った後も別の肉体に転生して生き続けるので、殺害は罪悪ではないんだそうです。
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それ故に、戦え、アルジュナよ。
こ〔の個我〕を殺害者と理解する者、またこれを 殺害されたと考える者、
その両者は〔個我を真には〕知らない。 こ〔の個我〕は殺しも殺されもしない。
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…たとえ輪廻転生を信じられないとしても、戦争を避けるべきではないともクリシュナは語ります。
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武士(クシャトリア)にとっては、義務づけられた、戦争にまさるものは無いからである。
偶然的に与えられた 開かれた天国の門である
このような戦争に、アルジュナよ、 幸運な武士(クシャトリア)〔のみ〕が際会する。
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それでもなお納得できないアルジュナに、クリシュナはその正体(ヴィシュヌ神)を現し、すでに敵は自分によって殺されているのだから、汝(アルジュナ)は外観上の殺戮者であれ、とも言います。このカミングアウトにアルジュナは畏れおののき、その説得に服してしまいます。
非インド人である私にとっては、クリシュナの議論はどれ一つとして了解できません。どうやらアルジュナもそうだったらしく、いま読みかけの『マハーバーラタ』本編では、この対話の後も何度も戦いに疑問を抱き、敵を殺そうとするクリシュナを体を張って止めたりもしています。
生死はかりそめだとか、戦は武士の誉だとかいう価値観は、インドでなくてもどこの国にもあるものです。私としてはクリシュナよりもむしろアルジュナの哲学に興味をひかれるので、もう少し『マハーバーラタ』を読み込んでみようと思います。