核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大塚楠緒子「進撃の歌」(『太陽』一九〇四(明治三七)年六月)

 全文は未見ですが、このたび笹尾佳代氏の論文「銃後の守り--大塚楠緒子『進撃の歌』/『お百度詣』における「同情」の行方 (小特集「日露戦争と近代の記憶」)」同志社国文学  (61), 422-433, 2004-11)で一部が読めました。

 「進めや進め一斉に」で始まり、「日本男児ぞ嗚呼我は」で終わる連が十繰り返される、実に単調空疎な新体詩です。大塚楠緒子はいつ日本男児になったんだとか、本質主義的なつっこみの一つもいれたくなります。

 笹尾論は、この「進撃の歌」と、一見逆方向に見える「お百度詣」が、「戦時下での機能は同じ方向性を持つものであった」と結論しており、同感です。中途半端に戦争の悲惨を語る言説は、戦争の美化につながってしまうのです。

 そもそも、「進撃の歌」は何のために書かれたのでしょう。前線の兵士が『太陽』を読むほどヒマだとも思えないし。「銃後」の国民に読ませることで、戦争に反対しづらい空気を醸成するのが目的としか思えないのですが……。