核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書 二〇〇八)

 「おたく/オタク」というのは、かつては二人称として使われていました。やや距離のある相手に対しての。

 私の古い記憶では、『超時空要塞マクロス』〔一九八二)というアニメの男性主人公が、会話相手(年上の女性)に対して使っていた記憶があります。

 転じて、そうした二人称を多用するアニメファンを、マスメディアが揶揄的に「オタク族」と呼び、一般化するにつれて「族」がとれて「オタク」になり、さらに定着すると略して「オタ」と称されるようになった、と記憶しています(神保町のオタ様、ごぶさたしております)。

 そして、どうもこの「おたく/オタクはどう生きるか」という副題のついたこの新書では、大塚英志氏は二人称として東浩紀氏にその問いを投げているように見受けられます。「東浩紀よ、おたく/オタク(二人称)はどう生きるか」と。

 たとえば、「批評家に責任はあるか」との小見出しがついた、第三章の一節。

 

    ※

 大塚 そうした時に、東浩紀のポジションはどこに在るの?国家なんて、ある特定の人間が洗練されたシステムの中で運営していけばいい、残りの人間は考える必要もないと言ったときに、東浩紀は考えない側にいるの?それとも洗練された運営する側にいるの?それともそれを傍観する立場にいるの?

 東 傍観する立場です。官僚でも政治家でもないですから。

 大塚 うーん・・・・・・それでも、批評家って仕事は成り立つの?

 東 成り立たないかもしれませんね。

 大塚 じゃあ、なんで批評家やってるの?

 (二〇五~二〇六頁)

     ※

 

 大塚氏はなおも不満だったらしく、第三章以降は対談というより詰問に近い調子になります。そして、東氏はその問いへの的確な答え(迎合した答えという意味ではありません)を、ついに出せていません。

 私はどうも世代とは無関係に、大塚氏に近い立場のようです。ポストモダンだろーがポストポストモダンだろーがポストポストポストモダンだろーが、「どう生きるか?」という問題は常につきまとうのです。「決断しないという決断」とか、「オリジナリティがないのがオリジナリティ」といった言葉は遊戯、言い逃れにすぎません。

 「どうするか?」という問いへの答えを出せていないという理由で、私はこれまで国民国家批判を批判してきました。東氏はもちろん国民国家批判ではないわけですが、答えを出せているかどうか。「動物化するポストモダン」「ゲーム化するリアリズム」の二著も合わせて借りてきましたので、読んでみます。

 

 追記 書名を書き間違えていました。訂正してお詫びします。