このたび国会図書館デジタルコレクションで、『明治文庫 短編小説 第一五編』収録の版を(つまり一八八八(明治二一)年の初出ではありません)、再読してみました。
「本常(ほんとう)にネー、地球の外から誰か見て居たら嘸(さぞ)可笑しなもんでせうネー」
なんて、第一作のヒロインにさらっと言わせるところはさすが弦斎なのですが。
主人公の白石潔が世界一周の遊学中に消息不明となり、恋人の梅村春子がその行方を追って、潔の家族とともに世界を旅するという筋立てです。壮大ではありますが説得力に欠けます。ユダヤ人を悪役に配したり、黒人を「黒奴」呼ばわりしている点(リンカーンの奴隷解放宣言(1863)より後の時代のはずです)は、弦斎も悪くアメリカ白人文化にかぶれたなという感じです。
ニューヨークだメキシコだオーストラリアだとさまよったあげく、ついに一行は題名でもある「カリフオルニヤ」州で潔と再会。いったん日本に帰国して結婚した後、白石梅村両家はふたたび、「将来のユートーピヤ」、カリフオルニヤへと旅立っていきます・・・・・・。
どうも、作品論を書きたくなる小説ではありません。ほんとうに地球の外からの視点を持てたなら、ユダヤ人だ黒人だって差別することもないでしょうに。冒頭に掲げられた人類規模の理想と、小説パートの壮大ではあっても空虚な世界像がかみあっていない印象を受けます。
次作『水の月』には差別問題に苦悩するヒロインが出てきますが、『加利保留尼亜』よりは理想が現実に溶け込んでいる印象を受けます(今のところ印象批評です。これから細部を読み込んでいきます)。
やっぱり、論文書くなら『水の月』のほうだな。