「本常(ほんとう)にネー、地球の外から誰か見て居たら嘸(さぞ)可笑しなもんで せうネー」
三回も引用してしまいました。村井弦斎『加利保留尼亜』(一八八八(明治二一)年)の一節です。明治ウチュウ系文学と、私はひそかに呼んでいます。
それがどうしたというのか、と異論があるかもしれません。現実社会の問題から逃避して、空想の世界に閉じこもる、平成時代に流行ったセカイ系、令和の異世界転生ものと一緒じゃないかと。
違うのです。違いは、地球(セカイ)の外から見ている「誰か」を意識するかしないかです。
『加利保留尼亜』は、地球のどこかで失踪した恋人を探して、日本を旅立ったヒロインが、地球を半周ほどしてカリフォルニアで出会うという、佳人才子もの(ガールミーツボーイ?)なのですが、その物語では西洋人は頼りにならない案内人として描かれています。
日本に閉じこもるのでもなく、西洋人の言うがままに行動するのでもなく、自らの意志で道を切り開く女性像が描かれています。彼女にそれを可能にさせたのは、先に引用した、地球規模の視野と、「可笑しなもんでせう」と自らを相対化するユーモア感覚(決して自嘲や自虐ではありません)でした。
地球の外から見ている存在を神と規定し、キリスト教信仰に赴いた新渡戸稲造や内村鑑三のような同時代人も多いのですが、弦斎はそちらの方向とは無縁でした。西洋キリスト教文明の欠陥である戦争や格差の問題が見えていたからでしょう。