核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

明治SFはなぜ宇宙を語るのか

 「本常(ほんとう)にネー、地球の外から誰か見て居たら嘸(さぞ)可笑しなもんでせうネー」

 

 村井弦斎の第一作の一節です。気に入ったのでまた引用しました。

 「宇宙から見たら」という発想は弦斎に限りません。ほぼ同時期には『文明世界 宇宙之舵蔓』という、宇宙人から自由民権思想を教わるSF政治小説があるそうですし(作者は別人)、これも別の作者ですが「宇宙美人」なんて短編もありました(いずれも未読)。なぜ彼らは、当時の技術力では行けるはずもない宇宙に、かくも思いをはせたのでしょうか。

 『宇宙之舵蔓』を紹介していたサイトに、「超・西洋」としての宇宙という表現があり、はたと思い当たりました。明治の先進的な日本人から見れば、西洋文明にも欠陥は多々あるわけです(戦争とか差別とか)。かといって古い日本中心主義(当時の言葉でいう国粋保存)に戻るのは、先進的な日本人には考えられない。

 そこで思いついた、現実の西洋文明とは違う平和のモデルを思いのままに描けるキャンバスが、「宇宙」だったのではないでしょうか。

 ・・・・・・明治SFに限ったことでもないですね。江戸川乱歩『宇宙怪人』とか、三島由紀夫『美しい星』とか。大江健三郎の『治療塔』もその線を狙ったのかも知れませんが、あの作品を私はSFと認めたくありません。