核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

人間失格とまでは言わないけど、大人失格

 これは尊大すぎる岩野泡鳴にも、自虐的すぎる太宰治にも、その他日本近代の純文学者、破滅型私小説作家の多くにあてはまることですが。

 社会と自分との、適切な距離のとり方、向き合い方ができていないのです。

 「おれは宇宙の帝王だ!」の岩野泡鳴も、

 「人間、失格。」の太宰治も。

 社会に迎合しなかったから彼らは純粋なのだと、純文学愛好家の方は言うかも知れません。私はそうは思いません。戦争時の言動を見る限り、彼ら純文学者もちゃんと国民らしく、一般社会の戦争熱に迎合して旗を振っています。平和な時にそうしなかったのは、むしろ平和時の社会に適応する能力を欠落していたからです。

 純文学や私小説がもたらす陶酔・快感というのは、どうもアルコールやある種の薬物に似ていると思うのです。良識ある大人としてふるまう能力を「欠落」させ、社会から「逃避」してしまうだけなのに、当人はそれを何かの「獲得」と思い込んでしまうような。それは思い上がりです。岩野泡鳴のような誇大妄想タイプはもちろん、太宰治のような被害妄想タイプも。陶酔もたまにはいいでしょうが、大人ならば大事な時にはしらふでいなければなりません。社会に迎合しろとは私は決して言いませんが、社会に適応はすべきだと思います。適応できてはじめて社会の悪をただしていくこともできるのだと。

 ……などと考えていると、伊藤整という昭和戦後の批評家が書いた「逃亡奴隷と仮面紳士」という評論を連想しました。検索すれば読めると思うので探して、続きはまたその後で書くことにします。またナポレオン伝の感想が遅れそうですみません。

 とりあえず私自身の立場としては、逃亡奴隷と仮面紳士、いずれにもなりたくありません。本物の紳士として、まあ社会的地位や財産は全然紳士とは言えませんが、せめて内面的になりとも紳士として、大人の社会人として、責任ある言論を発信していきたいと考えています。

 

 追記 あちこち誤字があったので直しました。ちょっと興奮気味で書いてしまったようです。