「核エネルギーを開発することにぼくは不賛成ではありません。わが国でもじつは核エネルギーは現に開発されています。日本人が核アレルギーで萎縮している、と主張する連中は意識してそのことに触れないけれども、東海村では核エネルギーが開発されていますし、東海村で開発された電力はいま町を流れています。それにぼくは反対しません」
大江健三郎 『核時代の想像力』(新潮社 2007 「文学とはなにか? (2)」)
しつこいと思われるかもしれませんが、同じことを何度もくり返しているのは大江健三郎であって、私ではありません。
初期随筆集『厳粛な綱渡り』も読んだのですが、「二十歳の日本人」(金日成と対面する北朝鮮青年を礼賛し、北朝鮮への在日朝鮮人帰還事業に反対する人々を罵倒する内容)が読めた以外には(後の自選集全十巻からは削除されています)、私の大江観をくつがえす材料は見つかりませんでした。
講演や随筆だけを判断材料にするのもどうかと思い、原爆テロを扱ったもう一つの小説『ピンチランナー調書』(1976)も読んでみたのですが、これが『宙返り』以上に悲惨な代物でした。
主人公=作者ではない、ということぐらいは私も存じていますが(「政治少年死す」の主人公が大江自身であるとは私も思いません。同作品についてはまたいずれ)、『ピンチランナー調書』では、頭に障害を持った息子の「森」は一貫して宇宙的意志の代行者に描かれていますし、被爆者の老人はこれも一貫して悪の権化に描かれています。なにより、登場する諸政治勢力のすべてが(反原発を表看板にかかげる「義人」なる人物も含めて)、革命のための原爆所有を自明の正義としており、それに反対する人物は一人も登場しません。作者自身が原爆の政治的利用に賛成しているとしか読めない作品です。
なにより、木多康昭がビクトリア朝文学に見えるほどの下品な下ネタの羅列が、ボルヘスの形而上学的世界に慣れてしまった私にはつらいものがありました(電車の中で読めないし)。光さんのユーモア感覚(「オデキ感激!」をご存知でしょうか)を少しは見習えといいたいところです。
え、内緒の奇蹟ですか。起こりましたとも。主観時間で3時間ほど昼寝したら(休日なのです)、日本文学協会から待ち望んだ吉報が。これで7月4日までは生きたいと思えるようになりました。詳細は後ほど。