核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

7月3日発表 付録 小林秀雄年表

1902(明治35) 4月11日小林秀雄生れる。
1921(大正10) 小林(19)、第一高等学校入学。盲腸周囲炎、神経症のため休学。
1925(大正14) 小林(23)、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。盲腸炎で手術。
1929(昭和4) 小林(27)、「様々なる意匠」(『改造』9月)。
1931(昭和6) 小林(29)、「マルクスの悟達」(『文芸春秋』1月号)。
1935(昭和10) 小林(33)、『文学界』の責任編集者となり、同誌に「ドストエフスキイの生活」を連載
1936(昭和11) 小林(34)、この頃から創元社顧問となる。
1937(昭和12) 小林(35)、「ドストエフスキイの生活」連載終了。12月、日本軍南京占領。
1938(昭和13) 小林(36)、3~4月、中国に渡る。「杭州より南京」(『文芸春秋 現地報告 時局月報』5月 第八号)。11月9日「水晶の夜」。3万人のユダヤ人、強制収容所送り(ドイツ)翌日の東京朝日新聞に記事あり。
1939(昭和14) 1月30日 ヒットラー、国会でユダヤ人絶滅を示唆する演説(ドイツ)。小林(37)、「外交と予言」(『東京朝日新聞』9月1日 初出「僕も人並に予言をして置く。ドイツは名実ともに共産主義に転向する」を全集では「当らぬ予言をして置く。ドイツは名実ともに共産主義に転向する」に訂正。第5次全集に追訂あり)
1940(昭和15) 小林(38)、3月、『文学界』の終身編集者に推される。4月27日、アウシュヴィッツ強制収容所設置命令(ドイツ)。我が闘争」(『朝日新聞』 9月12日 第五次全集年譜には「ヒットラアの『我が闘争』とある。詳細は発表本論にて)。9月27日、日独伊三国同盟小林、文壇新体制準備委員会に出席。10月14日、日本文学者会常任委員に選出された。座談会《英雄を語る》(『文学界』11月)
1941(昭和16) 3月、アウシュヴィッツ第2収容所(ビルケナウ)の建設命令(ドイツ)。12月、太平洋戦争開戦。
1942(昭和17) 小林(40)、「戦争と平和」(『文学界』3月 全集では末尾の一行「反戦思想といふ様なものはもともと戦争にも平和にも関係がない」を削除。すべての全集に追訂なし)。鼎談《海軍精神の探求》(『大洋』5月)。「無常といふ事」(『文学界』6月)。座談会《文化総合会議 近代の超克》(『文学界』10月)。大東亜文学者会議評議員、日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任。
1943(昭和18) 小林(41)、「ゼークト『一軍人の思想』について」(『文学界』9月)。イタリア降伏。
1944(昭和19) 小林(42)、回覧雑誌「鎌倉文庫」の責任者となる。
1945(昭和20) 5月、ドイツ降伏。8月、日本降伏。
1946(昭和21) 小林(44)、座談会《コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで》(『近代文学』2月)。6月、『新日本文学誌上で〈戦争責任者〉に指名される。8月、明治大学教授辞任。
1948(昭和23) 小林(46)、4月、創元社取締役に就任。
1950(昭和25) 小林(48)。9月、第一次『小林秀雄全集』(創元社版全八巻)刊行開始(~1951年7月完結)。「金閣焼亡」(『新潮』9月)。
1955(昭和30) 小林(53)。9月、第二次『小林秀雄全集』(新潮社版全八巻)刊行開始(~1957年5月完結)。
1960(昭和35) 小林(58)、「ヒットラアと悪魔」(『文芸春秋』5月)
1965(昭和40) 小林(63)、「本居宣長」(『新潮』6~1976年12月)。
1967(昭和42) 小林(65)。6月、大岡昇平中村光夫江藤淳編集による第三次『小林秀雄全集』(新潮社版全十二巻)刊行開始(~1968年5月完結)。
1978(昭和53) 小林(76)。大岡昇平中村光夫江藤淳編集による第四次『新訂小林秀雄全集』(新潮社版全十三巻 別巻二)刊行開始(~1979年9月完結)。
1983(昭和58) 小林(80)、3月1日死去。