核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

それが答えか!?          クリティアス断片集その2

 毎度おなじみアテナイの危険な思想家Kritiasの名(?)言集を、バルバロイ様の名訳でご紹介します。
 右から左にコピペしてるだけだろとか言わないように。私なりに吟味はしているのです。かっこ内は引用者。
 
 ラケダイモン人たちの国制』
32.アレクサンドリアのクレメンス『雑録』VI 9[II 428,St.]
 また、エウリピデスが、「父母の代より厳格なる暮らしぶりを修得せるは、生まれ善ろしき人たちなり」[断片525、4~5]と詩作したとき、クリティアスは書いている。
 「もちろん、私は人間の誕生から始めたい。いかなる場合に、身体において最善にして最強の人たちが生まれるのか? それは、生みの親が体育訓練し、旺盛に食し、身体を鍛錬し、また、生まれ来る子の母親の方も、身体において強健にして、体育訓練をする場合である」。
 (ラケダイモンとは軍事大国スパルタのこと。ナチズムとか言わないでください。マネしてるのはあっちです)
 
 箴言集』(第1巻、第2巻〉
39.ガレーノスヒッポクラテス「診療所内において」注解』I 1
 (視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして認識力とによって知覚されうる対象)18巻 B 654 Kuhn編
 知覚(aisthesis)についてのこのような説明法こそが、表象されるもの〔すなわち、知覚〕についてのストア派的説明法である。
652,2
 さらに、「認識」という名称についても言及し、昔は「理性(noos)」とか「悟性(dianoia)」とか――ただし「思索(ennnoesis)」とは違う――言われていたと言っている。そこで、これには多くの証拠があるが、そのうちわずかを例証しよう。クリティアスは、『箴言集』第1巻の中に、次のことを書いている。「対象は、その他の身体部位によってのみ知覚されるわけではなく、また、認識力によってのみ認識されるわけでもない」。
 さらにまた〔次のようにも〕。「人間たちが認識するのは、通常、認識力が健全な場合である」と。
(「表象」って言えばポストモダンだと思ってるあなた。それはクリティアスが2400数年前に通過した道だッッ!)
 
 48.ディオン・クリュソストモス『弁論集』21,3[II 267 Arn.]
 それとも、あなたは知らないのか?――「三十人」のひとりクリティアスが、男たちの中で最美の姿は女たちの姿であるが、しかし逆に女たちの中では正反対であると主張したということを。そうすると、アテナイ人たちが、父祖伝来の法習を書き直すために、彼を立法者に選んだのは義しかったことになる。彼はそれらの何一つも残さなかったのだから。
(前半はわかる。スゲーよくわかる。後半は何なんだよッ!何が「そうすると」なんだッ!)
 
 53.ポルクス『辞林』II 58
 また、全体の中の部分も、それが全体にとって必須であるかぎり、個別的部分〔であると同時に〕、全体に依拠している部分であり、全体に必須の部分〔である〕。それゆえクリティアスもどこかで主張している。「〔部分の有用さは〕全体の有用さに依拠する場合にのみ、それとの関係において成り立つ」と。 
(まちがってはいないけど・・・なんか「全体」主義のにおいがする・・・「全体論」じゃなく)
 
 反響皆無のこのコーナーですけど、もうちょっとだけ続けます。答えが見えてくるまで。