ユリアとのデートのために、地下1階のキャッシュディスペンサーで現金をおろすケンシロウ。もちろん、引き出し金額と暗証番号はどっちも199X!次回北斗の拳、「南斗の物価は、あ高かった~」(千葉繁ボイスでお読みください)。
・・・といった夢を見た。PCの不調が直るまでと思って昼寝してました。
(本日記事の冒頭の三行ほどはどうでもいい話なので削りました)
んで目が覚めたら、『日本文学』の10月号が届いてました。
今回の目玉は、関谷博『幸田露伴の非戦思想 人権・国家・文明―〈少年文学〉を中心に』(平凡社 2011年2月21日 243頁 2200円)の書評。かつてオタどんさまから推薦いただいて読んだけど、購入は後回しにした本です。値段はこれだけの分量の学術書にしては安いぐらいなんですけど、ちょっとだけ不満がありまして。
出口氏が明確に問題点を指摘してくれました。
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(少年文学という)おそらくはかなりの建前が含まれるそれらの言説を、素直に露伴その人の〈思想〉と見なしてよいのかという問題。数々のパラテクスト(引用者注 本文以外の作品についての情報。くわしくはジュネット論という形でいずれ論じます)を参照しつつ、ジャンル特有の言葉の背後に渦巻く作家の思いを汲取るのであればともかく、そうした慎重な手つきを経ず、一足飛びに作者露伴の〈思想〉として語るのでは、それはむしろ逆にテクストをこう読むこともできるという、著者の”非戦思想”を語ったように見えてしまいはしないだろうか。
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・・・明治の知られざる非戦思想を再評価しようとする関谷氏の試みに、私は(僭越ながら)同志的共感を抱いています。だからこそ、「テクストをこう読むこともできる」「著者の”非戦思想”を語った」だけ、というような書かれ方ではいけないのです。「この原典はこう(非戦思想)としか読めない」という説得力がなければ。
私自身、「矢野龍渓の平和主義」(仮)という論文を現在書いているところです。矢野龍渓がまぎれもなく平和主義者であったという歴史的事実と、その平和主義の「質」を、龍渓について何も知らない読者にも納得させること。それが今回の課題です。
(菅原 健史)