核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

遅塚麗水 「初鮭」 (1903(明治36)年)

 村井弦斎から「(小説)全篇は感心せんが一回や二回は白玉玲瓏たるものが出来る」と評された作家、遅塚麗水。そのメガネっこ小説「初鮭」を紹介します。以前引用した森崎光子氏の論文「眼鏡をかける女・かけない女」にもあるように、明治文学でメガネっこが魅力的なヒロインとして描かれることはほとんどないのですが、この作品は数少ない例外です。木下尚江の『火の柱』と並んで。
 では、「白玉玲瓏」たる、アメリカ帰りメガネヒロインの一言をどうぞ。
 
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 『妾(わたくし)が申上げるまでも御座いません、御存じで居らつしやいませうが、貴下(あなた)彼土(あちら)では国家の基礎は個人の上に建てられて、居るので御座います。ところが我国では、国の基礎は一家の上に建てられて居るので御座いませう、随(した)がつて彼土では個人の生存競争から、女子も男子と共に生活の戦争を致さなければならないのですから女子の気象の烈しいことゝ申したら、ボンネツト、長い袴(はかま)、容(かたち)こと異(かは)つては居りますが、其れを取り除けますと変生男子(へんせうだんじ)、日常(ふだん)の生活は男子と少しも異(ちが)はないので御座いますよ、けれども貴下、日本ではまだ仲々爾(さ)ういうふ訳には参りません、』
 遅塚麗水 「初鮭」 『女学世界』 1903(明治36)年2月5日 旧字体新字体に ルビ一部省略
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 ・・・この後、矢張り日本女性は良妻賢母でなくてはとか、とってつけたような発言もしてますけど。それは話相手の「石地蔵」のように保守的な老校長に遠慮しただけでして。彼女の本音は次の通りです。
 
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 『爾う、妾だつて東京へ出て往つたばかりで、今日(こんにち)の地位が出来たのよ、兎(と)にも角(かく)にも東京高等女学校の校長とか何とか言はれる身分になつたのさ、若し此の田舎へ凝乎(じつ)として燻(くすぶ)つて居て御覧なね、小千谷在某村(をちやざいなにがしむら)の水呑百姓田五作の女房お鏡さんね、おほゝゝほゝゝゝ』
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 結婚という選択肢を捨てることで自己実現を果たした女性。「おほゝゝ」が「電話機」の結末場面を思わせます。
 『金色夜叉』や『十三夜』の名場面をパロったような箇所もありますけど、テーマは一貫しています。不幸な結婚を描いた前二作品に対して、己の才能と努力で幸福を手に入れた女性を描くこと。
 で、人力車に乗った鏡子(やっぱり眼鏡だから鏡なんでしょうか)は、「十三年」ぶりに幼馴染の銀三郎と再会します。学者として出世した鏡子とは逆に、漁師だった銀三郎は漁区に石油が湧き出して魚がとれなくなり、人力車夫になっていたのです。
 銀三郎を傷つけたくない鏡子は歩いて帰り、銀三郎は彼女に魚を贈るため、久しぶりに漁に出ます。
 
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 『初鮭だッ』
 鳩が淵に油湧くこと少うして、魚復(ま)た故の淵に還り来しなり、福(さひは)ひなる哉(かな)    (終)
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 サーモンがふるさとに帰って来た。何気にエコロジー小説。
 この結末がそうであるように、作品自体も所詮はおとぎばなしであり、リアリティがないと思われる方もいるかも知れません。この時代、己の才能と努力だけで成功できる女性は絶無ではないにしてもごく少数でした。
 しかし、悲惨な現実をリアルに描くだけが文学ではない、現実を変えるモデルを提示するのも文学の役割であると私は考えております。で、別に女権論者というわけでもない麗水の作品を、フェミニストでもない私が長々と引用した次第です。
 ・・・しかし、石油を売るわけにはいかなかったんでしょうか。