聖徳太子の隋(中国)への対外硬(強硬な態度)を称揚する、いかにもこの時期の『太陽』な論なのですが、数えたら四回も「平和主義」という後が使われていました。いずれも「文明的の平和主義」といった、肯定的なニュアンスを伴って。
日露戦争という個別の戦争には反対できなくても、将来の理想としての「平和主義」までは否定できない、といった論調は、この時期の他の知識人にも見受けられます(そうでない戦争礼賛もありますが。「従軍行」とか)。非戦論はキリスト教徒や社会主義者の少数意見にすぎなかったという通説は、同時代資料の再調査によってはくつがえるかもです。
なお『太陽』の同じ号には、福地源一郎(桜痴)の「衆議院議員総選挙に関して」もありましたが、こちらは議会と内閣の協力を説くばかりで、戦争には賛成とも反対とも書いてありませんでした。彼の平和主義小説『女浪人』を知っている身としてはもどかしいところです。