核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『忠誠と反逆』自体に異議はないけど……。

 「自我の内面における忠誠構造からいうと、非戦論者の「志士仁人」は無関心派と鋭く切れて、むしろある種の(引用者注 「ある種の」に傍点)主戦論者(たとえば山路愛山や『日本新聞』同人など)に近く位置するのである」(丸山真男『忠誠と反逆』一九六〇 引用は岩波書店丸山真男集 第八巻』 一九九六 二五七ページより)

 ……そりゃ、まったくの無関心派に比べれば、熱心な賛○○派と熱心な反○○派にある種の共通点があるのは、何にでもあてはまることでしょうけど。
 前近代の社会でなら、主君への忠誠心が勢いあまって諫争、抵抗となるのもありうる話でしょうけど。
 明治の非戦論者に関しては、ちょっと再考の余地があると思うのです。
 少なくとも私は、同書で好意的に引用されている「幸徳は忠君愛国者無政府主義者に変ぜし者、更に無政府主義より忠君愛国に変ずるの有り得べき事なりき」(同書二五七ページ。出典は三宅雪嶺「事大主義は危険思想と孰れぞ」)という見解には賛同できません。
 非戦論者たちの、いわゆる「反逆」は、忠誠の裏返しに還元されるようなものとは思いません。それはあまりにも「忠君愛国」の側を絶対視しすぎた見方です。
 今回書く予定の論文では、そうした非戦論者の、「忠誠と反逆」の図式に還元できない独自性、といったものを主題にしたいと思います。丸山への反論といったことではなく。もっと大きな視野から。