小林秀雄の場合と異なり、北原白秋が戦争詩を書いていたという事実はすでに知れ渡っており、ネットでもよくネタにされています。そういう詩人(?)の詩句をつかまえて「戦争を賛美している!けしからん」とやっても学術上の新発見にはならないと思うので、少し方針を再確認しています。
一見、どうみても戦争賛美にしか見えないテクストの、ほころび、ひだ、縫い目、破れ目などを見つけ出すこと。そうした作業から、「文学が戦争を賛美するということはどういうことか」を、改めて問い直す方向でいきたいと思います。
たとえば、以下のような詩。
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言葉
「轟沈」といふ言葉を聞いた時、
僕のたましひは爆発した。
「自爆」といふ言葉を聞いた時
僕の心臓は一塊(くわい)の火となつて落ちて行つた。
何とすがすがしい一本の「雷跡」よ、
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作中の「僕」は仮定された少国民読者であり、北原自身ではないという見方もあるかも知れませんが、そうとも言い切れないようです。「自爆」に美や感動を覚える詩はほかにもあるからです。
「轟沈」「自爆」「雷跡」といった言葉を聞くだけでわくわくしてしまう感性は、北原自身のものでもあったと思うのです。
で、それが冒頭の議論とどう結びつくかというと、こうした自爆を賛美する詩は、軍部にとって必ずしも好ましいものではなかったと思うのです。といって反戦的というわけではむろんありません。
一機の航空機、一名のパイロットでも大事にしたい軍にとって、安全な場所から「自爆!じ~ば~く~!」と叫ぶ便乗者というのはいかなる存在であったか。そういうことを考えていきたいと思います。